白いベッドが並んでいる。その上にはベッドと同じく白い患者服を着た人間が、さも自分は枯れた花だといっているような顔をしていた。
 しのぶは診療簿(カルテ)を片手に足音を立てながら近寄って、それぞれの容体を確認していった。
 蝶屋敷に運び込まれた人間の症状は様々だ。大抵鬼との交戦による骨折や欠損、たまに血鬼術によって一般の医療機関には到底見せられない有様になった場合もみられる。
 皆口々に「死にたくない」だの「痛い」だの「つらい」だのと言うものだから、しのぶは一瞬巡る血が煮えてしまいそうだった。しかしこの屋敷の主人は自分であることを思い出して、文句を連ねようとした口を閉ざして、にっこりと笑みを作った。

「大丈夫です、死にませんよ。治すのに専念してくださいね」

 蝶屋敷は日本家屋であるが、正味その設備は西洋流に押されている。産屋敷経由で入手した最新式のものが揃っているし、しのぶはそれを十二分に扱えるように努力している。だからってそんなことを細々と説明したって、うんうんと落ち着いて臥してくれる人間は少数なのはわかっている。
 だって皆大事なのはそれで自分は救われるのか否か、その一点だけなのだから。結局かわいいのは自分なのだ。

 無人の廊下に出たしのぶはひっそりと細いため息をついた。そうして周囲に広がった深いしじまの中に、がらりと玄関の引き戸が開けられた音がはいりこんだ。

「胡蝶様!」

 視界に入った赤に、しのぶはまず度肝を抜かされた。隊員の男に背負われた女のものだった。彼に力なく体を預けて、傷だらけの女は、見覚えのない人だ。しのぶは男に待機するように言いつけてから、女を預かって、治療用の部屋へと歩き出した。
 身丈は姉と同じくらいだろうか。背負うことはできなかったので、肩に手を回させて、半ば引きずる形で運んでいく。ナマエの呼気は弱々しくて、力もない。今ここで死ぬのではないのだろうかと疑ってしまった。

「……あなたは死なせませんからね」

 返事はなかったし、特に期待もしていなかった。ただの独り言だった。掠れた声がしのぶの耳に入った。

「どなた、ですか」
「私は、」
「――は無事でしょうか」

 一応、知っている名字だった。――は、先の男のものだ。

「まあ……無事ですけど」

 言い終えると、途端に女の重みが増した途端しのぶは思わず身震いをしてしまった。そして彼女から流れる血がどんどん自分の羽織から隊服にまで染み込んでくるのを感じて、部屋へ向かう足をはやめた。
 ――なんか変わった女(ひと)だわ。

 小半時もたたぬうちに傷口から湧いてくる血をなんとか止めて、しのぶは姉に習ったとおりに治療を行った。女の四肢に刻まれた鬼の爪痕はしばらくすれば消えるだろう。
 女に痛み止めを飲ませてからそう説明すると、彼女は苦いものをのみくだすような顔で頷いた。

「そうですか」

 その顔がどうにも痛みからきたものではないと気づいたしのぶは、咄嗟に問いかけた。

「あの、もし鬼殺の任務をもうしたくないのなら、此処に居ますか?ちょうど人手も欲しかったんです」
「いいんですか?」
「構いませんよ」

 青ざめていた彼女の表情に喜色がにじんだ。

「ありがとうございます、胡蝶様」

 女は包帯で隠れていない方の目をつむって笑い、お辞儀をした。しのぶは治療に使った道具と、女のぼろになった隊服を入れた籠をのけて、女のいるベッドへ寄って行った。

「しのぶで良いです」しのぶは微笑んだ。「あんまり他人行儀でも、やりづらいですし」
「ええ、わかりました。……しのぶ、様?私はミョウジナマエです。お好きなように呼んでください」
「ナマエさん」

「はい」とナマエはまた笑って頷くと、彼女の動き似合わせて黒い髪が揺れた。




 口の中がじゃりついていた。まばたきをして、しのぶははりつきかけた喉をつばで潤した。腕の中にいる姉は、鬼によって致命傷を負わされていて、徐々に重たくなっていく体に、しのぶは身震いをした。漠然とした、体を刺すような恐怖に覆われて、動かぬ姉を抱きすくめた。


 しのぶは戸を叩かれる音で目を覚ました。「もう朝ですよ」と、彼女を起こしに来たアオイは物珍しげな表情をしていたが、朝食の用意ができているとだけ言って部屋を後にした。
 足音が遠ざかるのを耳の底で捉えながら、しのぶは汗ばんだ額を枕に埋めて深呼吸をした。初めて呼吸法を習ったときみたいに、痛いくらい激しく心臓が動いている。

 最愛の姉とこの蝶屋敷で穏やかに暮らし、剣士として共にえいえいと鬼殺をして、最後に彼女が鬼に殺されて、完全に空っぽになってしまうまで、しのぶがあれが夢だと気づけなかった。夢のくせに、起きてしまえば忘れてしまう曖昧なものではなく、覚醒しても胸の痛みがずっと尾をひくほど酷いものだった。
 落ち着いたところで身支度をして、しのぶはナマエのもとに向かった。しのぶが去ってからすぐに寝たのだろう、こんこんと眠りにつくナマエは、白いシーツの上にその豊かな黒髪を広げたままだった。その髪を根元から先まで手ぐしですいて、しのぶは肩を落とした。ああ、全然違う。

 多分、あの夢を見てしまったのはナマエが原因なのだ。姉とナマエは背格好が似ていたし、死にゆくその人の体をしのぶ一人で抱えたという状況、なんとなく重なるところがあった。だけどよくよく観察すれば目鼻立ちからして姉とは遠いし、髪質だって違う。もうあのような夢を見なくて済むように、しのぶはナマエと姉の相違点を探していこうと顔を寄せると、ナマエの瞼がぴくりと動いた。

「……起きてますか?」

 ナマエはうっすらと目を開くと、苦い笑みを浮かべた。

「……起きています」
「いつから?」
「しのぶ様がお見えになった時には、もう」
「そうですか」

 さてどう言い訳をしたものかと思考を巡らせるが、よい案は浮かばぬままだった。ナマエは自分の髪の先に触れて、困った風に眉を下げた。

「私の髪になにかありましたか?」
「いえ、」しのぶはとっさに否定したことを後悔しつつ、首を振った。「……何も」

 ナマエからすれば、自分が眠っている間に同性ではあるが他人から髪を無遠慮に触れられたのだ。何か申し開きをせねば納得しないだろうーーそう思って、彼女に視線をやれば、ナマエは「わかりました」と頷いた。

「人の髪に触れたくなるときもありますよね」
「……いいんですか?」
「しのぶ様ならいいですよ」

 ナマエは柔らかく笑った。そしてしのぶに言った。

「死にかけの人間に『死なせません』だなんていう人が、悪いことをするとは思えませんから」
「え」

 目を丸くして、徐々にほおに赤みがさしてゆくしのぶに、ますますナマエは「ごめんね」といたずらっ子のような笑みを深めた。




 きよ達にこの屋敷の生活を支えてもらいつつ、アオイに自分の知識を与え、カナヲを剣士として育み、任務があれば即座に向かう。
 それがしのぶの生活様式なのだが、最近任務の頻度が増えてきた。柱だった姉の後任にしたいのだろう、しのぶに戦績を積ませようとしているのが透けて見えるが、実際に鬼はいるのだから下げてもらうわけにもいかない。
 すでに限界間際の疲労を小さな体に抱えながら、玄関にたどり着くと来た時よりも幾分も顔色のよいナマエが待っていた。

「おかえりなさい、しのぶ様」

 ナマエはにこりと笑うと、しのぶの羽織から日輪刀まで取り上げて、「お風呂を立ててきますね」と半ば駆けだすように去っていった。しのぶはぽつねんと取り残されたままその背中を見送って、ゆったりとした足取りで自室へと向かった。

 ナマエには家のことはもちろん、自分がいない間のカナヲの指導、薬作りなど所謂雑務を任せているが、今のように見送りや出迎えはナマエ本人が望んでやっている。
 しのぶは止める気はなかった。玄関口で彼女から時折投げられるしのぶを労わるような、愛でるような視線に悪い気はしないのだ。むしろ彼女に出迎えられると、体の中に張り詰めていたものが溶け落ちるような気がして好きだった。
 ナマエは、あっさりとしのぶの生活の一部となったのだ。

 ふと思い立ったしのぶは、そのまま浴室に足を向けた。ちょうどナマエが出てくるのを見かけて、「ナマエさん」としのぶは声をかけた。

「どうしましたか?」

 ナマエはなにか用事でもあったのだろうかと、目を点にして不思議そうに首をかしげた。しのぶはナマエの肩にかかった黒髪に視線を滑らせて言った。

「規則、というわけではありませんが、よかったらナマエさんも髪飾りつけてみませんか?」

 ナマエはしのぶの視線に気がついて、少し照れたように自分の髪に触れた。

「髪飾りって、あの、蝶の髪飾りですよね」
「はい」

 髪飾りの始まりは、姉からだ。小さいころ、彼女がたまたまつけていた蝶の髪留めを見て、しのぶもどうしてもつけたくなって、だだをこねたのを覚えている。蝶が欲しかった、というよりも姉と揃いのものが欲しかったのだと思う。それから姉は、可愛いからと蝶屋敷に来る子たちにも積極的につけさせるようになったのだ。
 しのぶからこうやって誘うのは初めてだった。妙に緊張してきて、しのぶはつま先で床板をつついた。ナマエは手をすり合わせて、しのぶをそろりと見やった。

「それって種類も選べます?」
「ええ」
「ああ、じゃあ、しのぶ様とおなじものでお願いします」
「私の?」
「はい。おなじのが良いんです」ナマエは切実な眼差しのまま、困り眉を下げた。「駄目ですか?」

 何かがしのぶの胸をぎゅうと締め付けるか、頭をがつんと殴ってきたような衝撃が走った。くらくらとめまいを感じて、しのぶは冷静な思考のもとで頬に手を当てて、熱がたまってないことを確かめた。

「ええ、ええ……」

 構いませんよ、と頷く自分はこれ以上にないくらい揺れた声をしていた。




 予感は現実となった。数日もしないうちに、鎹鴉から届けられた手紙を机に広げたままにして、「ナマエさん」としのぶはそれとなく言った。

「私、柱になるみたいです」

「えっ」

 と、ナマエは面白いくらい目をまん丸にさせた。「本当ですか?」

「ほんとです。正式な発表は次回の柱合会議でやるらしいです」
「おめでとうございます!」
「ふふふ、ありがとうございます」

 白いほおを赤らめて、「私まですごく嬉しくなりました!」と手をとってやんややんやと自分を讃えるナマエの姿に満たされた思いになる。思い出したようにナマエは言った。

「私も、報告があります」
「報告?」
「――をご存知ですか?何度かココを利用している人なんですけど」
「ええ、まあ……」
「この前、彼に将来をともにして欲しいって言われまして」

 しのぶはナマエの放つ言葉で、初めてひやりとした気持ちになった。

「……ナマエさんは、それに、応えると?」
「……傷のある女にそんなこと言う人はそういませんし、それにずっと此処にいるわけにもいかないでしょう?」

 ねぇ、と首を傾けるナマエは、泣きたくなるほどおだやかな笑みを浮かべており、しのぶは思わず視線を落とした。すでに彼女の決定は揺るがないし、しのぶに賛成してもらえることを確信しているような笑みだった。平生ならあのてこのてでうまく丸め込めるはずだったのに、何故か思考がうまくまわらない。むしろ感情的なところが大きくなってきて、それを押し込めるように口をつぐんだ。それから、ゆっくりと首を縦に振った。「わかりました」と抑揚づけて空っぽの言葉を紡いだ。
 大好きなナマエの笑みを裏切れなかった。止めろ、と心中の叫びが身体中の血をさかまかせて、しのぶの内側に許容以上の熱が溜まっていく。それをどうにか吐き出すように、しのぶは言った。

「いつでも帰ってきてください」


5

 それから足掛け数ヶ月というものは、姉が亡くなった直後と変わらぬ生活を送った。任務があれば即座に向かい、きよ達にこの屋敷の生活を支えてもらいつつ、アオイに自分の知識を与え、カナヲを剣士として育む。

 時折思い出したように届けられるナマエからの手紙を、机上に積み続け、とうとう束ねておかねば崩れるほどの量になっていた。

 そんなしのぶの気持ちを映すように今日の雨脚は強い。だからしのぶが玄関口をたまたま通らなければ、その格子扉にうっすらと見える来客に気づかなかっただろう。
 こつこつ、と遠慮がちに戸を叩く音にそんなんじゃ気付かないだろうと呆れつつ、しのぶは戸を開くと、濡れ鼠になったナマエが佇んでいた。しのぶはどうにか平静を装って、ナマエの腕を引いた。

「あがってください」

 しのぶは自分の部屋にナマエを通して、適当な場所に座らせた。ナマエは伏せた瞳にうっすらと涙を浮かべていた。

「どうかされましたか」

 大事な人が目の前で泣いているというのに、しのぶはいまから問診でも行うような口ぶりだった。
 ナマエは目の端に涙の粒をためながらほそぼそと事のあらましを語った。簡単にいってしまえば、例の男が任務で亡くなってしまったとか。終いにはぐすぐすと鼻を鳴らして子供のように泣いてしまった。小さくなってゆくナマエを見下ろしながら、しのぶはどうしても切り出さねばならないという気がして、ナマエにたずねた。

「好きでしたか」
「え?」

 訝しげなナマエに構わず、しのぶは再びたずねた。

「彼のことは好きでしたか」
「好き……そぉ、ですね。彼のことは好きでした。だけど彼と私の好きは多分違いますけどね」

 最後の部分は少し申し訳なさそうな顔で言った。

「そうですか」

 なぜ、そんなことを聞いてしまったのか、考えるうちにしのぶはそこでようやく気づいた。
 自分がナマエといる間、どのような顔をしているのか全く気にしておらず、そして自分がただただこどものように、妹のように、親愛だけを彼女に募らせていたのではないということに。
 しのぶは、知らず知らずのうちにナマエに救われていた。

 しのぶが鬼殺隊となり、最愛の姉が亡くなった後も続けていたのは惰性からではない。鬼という存在を知った以上、それを殺さなければならない、そして蝶屋敷の子達を今更見放せないという義務感。姉の悲願であろう鬼との和平を達成しなければならないという責任感。何かの呪いのように、それらはしのぶの心をここに縫い付けてきた。
 ナマエは、屋敷にいる間だけでも、しのぶの肩の荷を一つ一つ降ろしてくれたのだ。
 ナマエは至って普通の人だ。特別な才能も無いし、心身が異常に強いということもない。しのぶを支えてくれたのは彼女の人柄だ。下心なく他人の心配をする、献身的なところがあると思えば、時折ころころとしのぶをおちょくるような、子どもっぽいところもある。
 接していて気持ちの良い彼女が側にいると、何処か安心感を覚えて、しのぶは自分が刀を持たなければならない自分を忘れてしまえるのだ。
 それがどこか癖になって、失いたくなくて、しのぶはナマエに対してどろどろとしたものを募らせていた。

 しのぶがナマエの肩をおすと、彼女の体はあっけなく畳に崩れ落ちた。ナマエのまん丸とした目がしのぶをうつした。

「し、しのぶ様」
「ナマエさんは、もうずっとここにいてください」

 しのぶは、ナマエを腕の中に閉じ込めた瞬間、幸せな気持ちになった。やわらかくって、あたたかくて、ナマエのにおいがする。その感覚に、陽の下にいるように体も思考ものぼせてしまそうだった。

「ああ、まったくーー」

 しのぶがまばたきをするたびに、するすると頬にぬるい涙がおりていった。

 ――私も自分がかわいいんですよ、ナマエさん。そうやって血縁者でも、身内でもない男のためにきれいに泣いてしまうあなたが手に入ったことを、私はこんなに嬉しく思ってしまう。私も有象無象の一人なんです。

「――最初から、こうしていればよかったのね」

  

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