「キャイン」と犬の悲鳴とつづいて何か重いものが床に落ちる音が真横で聞こえてきて、ナマエは衝撃に耐えるべく固く閉ざしていた瞼を上げた。
振り仰ぐと二対の獣が、天井から現れた大きなー少なくとも先ほど祓ったものよりも大きいー呪いを威嚇するように佇んでいた。瓦礫がすぐナマエの傍にあり、玉犬たちが避けてくれたことがわかった。
アンテナのように首を巡らせると、少し離れたところに女子生徒を抱えた虎杖が、そして呪いの大きな腕により捕まれ伏黒の姿が確認できた。
ーー伏黒が術式を組む時間を稼がなければ。
ナマエは玉犬たちに井口を任せて、呪いの後ろ足ーおそらく太ももに当たる場所だーに呪力の篭ったBB弾を撃ち込んだ。だが、呪いはこちらを意に介さず、乾いた音が廊下に虚しく響くだけだった。
「あっ」
次いで上がった大きな音に思わずナマエは声を上げた。赤子がおもちゃを無邪気に、乱暴に投げるが如く、伏黒の体は呪いにより壁に叩きつけられたのだ。鈍く痛々しい音がナマエの心臓を鷲掴み、目を逸らしかけてしまった。
ナマエは唇を歪ませて、呪いに駆け寄った。「こんなのやりたくないんだけどなぁ!!」という本心を喉元にまで抑えつつ、その薄気味悪い体に触れて、呪力を流した。
血液のように呪いの全身に流れる呪力の奔流を、ナマエの呪力が侵して、無理やり逆流させていく。呪いに走る拭えきれぬ異物感と嫌悪感、痛みもあるだろうか。呪いはたまらずといった風に、意味を持たない雄叫びを上げて、真ん中の腕でーこの呪いには腕が二対、足が一対あるのだーナマエを掴み上げた。
腹部の圧迫感に表情を歪ませていると、先のように廊下を誰かが駆ける音が耳に入ったーーかと思えば、呪いはその音に応えるよう、突風のように動き出した。
ナマエは抗えない浮遊感と重力に見舞われるーーそして、揺れる視界は廊下の天井から夜空―どうやら帳は上がっていたらしい―へと移り変わり、ナマエは先の呪い顔負けの悲鳴を上げた。
「い"ッッ!!」
降り立ったのであろう場所で、ナマエは壁に向かって思い切り投げ出された。何回か床をバウンドしている最中、もっけの幸いで受け身が取れたため、体の擦り傷や打撲だけで済んだようだ。
ただ、状況は悪い。
ようやく働いた頭でわかったことは、ここは先にいた校舎の隣の棟の屋上であること、そして伏黒が術式を組めないほど重傷を負ってしまっていることだ。
呪いの巨体越しに見えた伏黒は服も体もぼろぼろで、吹き荒れる風に合わせて足元をふらつかせていた。
ナマエは己の無力さに愕然とさせられた。ナマエの呪術師としての才能は平凡だ。ただ、特殊な目を持っている、それだけなのだ。
圧倒的な呪力だって持っていないし、反転術式も使えない。ただただ友達に死が迫るのを、見届けることしかできない。
ーーここであっけなく死んじゃうのかなあ、私たち。
ナマエはずくずくと痛むこめかみをおさえつつ、他人事のようにそう考えた。ーー感覚の麻痺、というよりもそれは自らにも迫るであろう危機から目をそらそうとする、現実逃避だった。
ただ、胸の内が冷えていき、つんと目尻が熱くなったのは確かだった。
ゴン、と鈍い音が響いた。それは、伏黒が呪いに嬲られて生じたものではなかった。
「虎杖くん!?」
ナマエは目の前の光景に瞠目した。虎杖が文字通り、呪いの上に降ってきて、そのまま体重かけた重々しい拳を振るっていたのだ。思い切り叩きつけられた呪いの体は、コンクリート上で少し歪んだ。
「だめ、だめ!!やめて!!」
ナマエは虎杖に叫んだ。
呪いの標的となった虎杖は、振るわれた大きな腕を難なくいなして、呪いを思い切り蹴り上げた。呪いのたわんだ体はすぐに戻り、そしてお返しとばかりに呪いは躊躇なく虎杖の頭部に向かって拳をぶつけた。
強かに打ち付けられた虎杖の体がゴシャリ、と生々しい音を立て、ナマエの肌が粟立った。
当然だ。虎杖は術式を持っていないし、呪力を捻出できない。呪いは呪いーー負の感情の流れ、呪力を持って祓うものだ。
いくら物理的に力が強くとも、呪力が付与されたものでなければ呪いは祓えない。虎杖がここに来るべきではなかった、最たる理由はこれだ。
向かいの伏黒のもとまで投げられた虎杖はまだ動ける元気がありそうだった。そのことにナマエはほっと息をついた。風のせいで会話はこちらまで聞こえないが、細かいことは伏黒が説明しているだろう。
ともすれば呪いはこちらの事情なんて御構い無しだ。ずんずんと向こうに足を進める呪いに、ナマエはふらついた足取りで近寄ろうとした。
「馬鹿!!やめろ!!」
伏黒の声があたりに響き渡る。一瞬、自分のことかと思いナマエは足を止めた。
しかし、そうではなかったのだ。
呪いの体越しに二人の様子が見えた。驚愕に染まった伏黒の表情とーー両面宿儺の指を持った虎杖。
嫌な予感がした。何を、とナマエが動く前に虎杖は宿儺の指を口にした。予想外の行動に、ナマエは目を見開いて、「ハ!?」と悲鳴帯びた声を上げた。
虎杖の喉が膨らみ、しぼみーーそして、虎杖の全身から、荒縄のような呪力が溢れ出した。
「ぁ、」
ナマエの鼓膜を震わせたのは、自分の声とは思えないほど弱々しい。しかしこれから起こるであろう絶望的展開を予期できた少女にはぴったりのか細い音だった。