咄嗟に体が動いた。あの男と鬼の間に利き腕を割り込ませて、鬼の爪による攻撃を相殺するように型を使った。衝撃は思ったより強く、俺は踏みとどまろうとしたがそのまま雪の上に背中から倒れこんだ。
 たった数秒の間だった。鮮血が空に弧を描いて、鬼は痛みに喘ぐ暇もなくその首が落とされていた。
 あの男は俺を一瞥することなく鬼を斬ったのだ。
 安堵する間もなく俺は雪の上だというのに生ぬるい水の中にいる感覚に陥った。右腕が鉛のように動かなかったので、仕方なくもう一方の腕で水に触れた。視界に入ったのは赤だった。視線が、軽くなっていた右肩に移動した。
 腕が、なかった。
 ああ、と掠れていて、頼りない自分の声が耳に入った。
 先ほどの、鬼と肉薄したあの一瞬で吹き飛ばされたのだ。文字通り。鬼によって、寒空の下で。向こうには刀を握ったままの俺の腕が見える。他人のものだと信じたかった。
 しかし、あの刃の色と鍔は俺のものである。
 嘘だ、と思った。その反面で、頭の隅に居る、冷静な自分はこれが現実だということは理解していた。
「あああぁぁあああ……」
 気がつけば、癇癪を起こして思考を逃避する幼児のように爆ぜていた俺は、地に伏して、声を情けなくあげながら泣いていた。もう何もない肩を庇うようにしながら。
 あの男は、義勇は、近づいてきたかとおもうと乱暴に俺を起き上がらせて、右腕があった場所を手ぬぐいで押さえつけてきた。真っ白な布はあっという間に朱に染まっていった。
「痛いか」
 淡々とした問いにかぶりを振った。見せまいと羽織の裾で涙を乱暴に拭ったせいか目尻がひりひりする。確かに、吹き飛ばされた部位は痛いのだ。それ以上に、もう俺は剣士ではなくなること。
 明確で、取り返しがつかないそれが無性に悔しく思えて、涙が止まらなかった。

****

 ナマエが鬼狩りとなったのは、やはり鬼が原因だった。
 玄関に藤の文様を構えたナマエの家は代々鬼殺隊の協力者として慎ましやかに暮らしていたのだが、その存在を知った鬼の手によりナマエの平和は崩壊したのだ。
 運良く、彼は用事でその場にいなかっただけだ。帰宅された彼を待っていたのは好き合っていた女と、敬愛していた両親と可愛がっていた同胞の肉塊であった。既に食い散らかされていて、誰も息をしていなかった。
 血の臭いと、涙の味と、絶望感に打たれながらも、殺された家族の仇を取りたいという敵への憎しみが募って行き、その絶え間ない憎悪は、ただの田舎暮らしであったナマエに刃を握らせた。


 しかし、先日の鬼殺にて片腕をなくしたナマエはろくに型も繰り出すことも出来なくなり、剣士の道を自分から外れて、隠として鬼殺隊に所属することを選んだ。


 −この結末はあんまりじゃあないか。
 ナマエは乱暴に筆を置き、小刀で紙の端を切っていく。片手で器用に封をしてから、宛名を書いた。産屋敷輝哉ー鬼殺隊当主の名前だった。
 手紙を懐に仕舞い込み、隠の被り物をする。早朝から書き始めていたのだが、随分と時間がかかった。
 両腕さえあればこんな作業すぐ終えるのに。
 ため息をついたところでそもそも腕を失わなければこんな作業をしなくてもいいのだということに気づき、ますます落ち込んだ。
 玄関先の止まり木から鎹鴉に歪な声で呼ばれて、ナマエは視線を数秒やってから、門をくぐるために足を進めた。鴉は嫌いだった。
 あの目をみると、落ち着かないのだ。
「あいつを思い出すからなあ」
「あいつ?」
 門前に現れた影に「うわっ」とナマエは裏返った声とあげて、大きく仰け反った。やがてそれが顔を知った人間であるとわかると、深く息をついて、佇まいを正した。
「義勇か。何しに来た」
 聞かれた義勇はすぐに答えずにぼんやりとした眼にナマエを映した。そのまま「ナマエ」と抑揚のない声で、改めて名を呼ばれるので、思わず身を固めてしまう。

「昼餉はもう取ったか」


 仇敵に一矢報いたいと切に願っていたナマエを拾ったのは育手である鱗滝だ。ナマエの家には、昔世話になったという恩があるのだという。
 ナマエが鱗滝の元で過ごし始めた数日後には冨岡義勇がやって来た。ナマエは、彼が今と同じように愛想もなかったと記憶している。
 同門として、一つ屋根の下で数年間衣住食を共にした仲だ。故に冨岡義勇とナマエは、他人という言葉が遠すぎる間柄である。だが、以前、それを知る知人から冨岡とは友人か、と問われた時にナマエはすぐに否定した。
 ナマエは義勇のことが好きではなかった。


 鬼殺隊の本部にも食堂がある。昼時のせいか、人が多かったが、生憎男二人が座ることができる場所ぐらいは空いていた。
 注文を取る店員の目が好奇心に満ちていたのは気のせいではないとナマエは確信していた。席に着いた二人の客の一方は柱の一人で、もう一方は冴えない隻腕の隠だ。
 −なんでまだ食べてないって素直に答えたかなあ、俺。
 義勇から、昼餉に誘われるなんて、思ってもみなかったのが正直なところだ。
 周囲の視線もなんだか此方を向いている気がして、じっとりと、濡れたままの服を着たような居心地の悪い空気にナマエは辟易としていた。
「飯ぐらい一人でもいいだろ」
 ナマエはそしるように言った。義勇はナマエの態度を意に介さず、さらりと「同門を誘って何が悪い」と返した。
 それもそうだ。しかし今のナマエは気が立っていて、謝るのも癪だと義勇にはそのまま無言で返した。
「嫌なら来なければ良かったのに」
 波紋さえも広がっていない、凪いだ海のような目がナマエの様子を伺う。
 義勇の剣呑な眼差しに、ナマエは口ごもりながら、「普通、同門に誘われたら応えるに決まっている」と突っぱねるように呟いた。
「そうか」
 義勇はやはり無表情のままだった。
 さきほどの「あいつ」とはお前だとは決して言えない。


 義勇の感情の機微はわかりにくい。その表情は岩のように硬く、彼から発せられる言葉以外に彼の意思を汲むことができないのだ。
 鬼と対峙した時でさえ、あの横顔は鬼への恐怖にも嫌悪にも染まらない。ただ機械的に鬼を狩っていた。
 ナマエはその姿が好きではなかったのだ。
 義勇の気持ちなんかは知らないけど、こいつ、死ぬ時にはなんの感慨もなく死ぬんじゃないのか。
 なんの確証もなくナマエは決めつけ、それは駄目だと、勝手に考えていた。


 ナマエの器に、義勇は視線を注いでいた。自分の頼んだ蕎麦には四季に沿った天ぷらが添えられているが、ナマエはただの出汁をかけた蕎麦だった。口を使って箸を割った後にナマエが顔を上げた。
「なんだよ」分かっていたようにナマエは答える。「こっちのが給金が少ねえの」
 ため息混じりの答えに義勇は関心のないように「ああ」と呟いた。器に視線を注いだまま何も言わなかった。ナマエが先に麺をすすっていると、ようやく義勇が口を開いた。
「ナマエ」
「ん?」
 いちじくのてんぷらを一つ摘んで見せた。
「要るか?」
「嫌味か?」
 惨めだ。
 施しなんて結構と頑なに断ったナマエの器に手早く義勇は自分の分の半数を浮かべた。結局ナマエはそれを食べた(仕方なくだ)。


 ナマエは幸福だった頃を時折思い出す。今となっては泡沫と化した過去だが、家族と共に暮らしていた安寧の日々に、ナマエは懐郷の念が抑え難かった。
 可愛がっていた同胞は、学舎でよく誰かの暴力の矛先を向けられていた。大抵、彼が何をしたとかではなく、日頃の鬱憤を晴らすためだった。ナマエはその相手が誰かに関わらず謝らせた。
 相手が上級生の華族だったこともある。流石にその時は、敬愛した両親からは「ナマエは、少し頑固すぎる」と怒られたが、身内が抵抗する術もないまま、理不尽な暴力を振るわれていたのは黙っていることはできなかった。
 やりかえし方が分からない、やりかえせない、そういった人間がいいようにされているのは看過できない。代わりに自分がやりかえしてやるのだと、気づけば体が動いてしまう。
 可愛がっていて、面倒をみている同胞ならなおさら力が入った。
 その時に、好き合っていた女からは「貴方のそういうところは好きだけど、危ないことはしてほしくない」と微笑まれて、少し困ってしまった。しかし、胸の中は暖かさで満たされていた。
 家族との他愛ない会話を、留めようとさえしなかった記憶を思い出すたびにナマエの責任感や、寂寞感で胃がずっしりと重たくなる。現実を受け入れたくないと逃避したかった。反面、彼らとの日々は愛しいものだった、と過去のものとして受け入れる気持ちもあった。
 ナマエを突き動かすのは、そうした愛しいものを潰えさせた鬼への憎しみだった。

 では冨岡義勇は、どうなのだろうか。
 彼はナマエに対して何も語らなかった。剣士になりたい理由も、鬼をどう思っているのかも。「鬼は鬼だから斬る」とだけ口にしたのをナマエは覚えている。
 鬼に対する、怒りがあるのか。お前に何があったのか。ナマエが尋ねても義勇は答えなかった。
 義勇は、斬るといったのだ。
 斬りたい、殺したいなどの感情を乗せず、からりと乾いた風のように、淡々とそう言葉を連ねたのだ。
 義勇の姿が訝しく思えたナマエは、そのままこいつを見過ごすわけにはいかないという責任感さえ覚えていた。
 近くにいる間は、能動的になにか求めるような人間になるようにしてやるべきだ。自然な人間にしてやって、少しでも色づいた生を歩ませてやらなければならない。
 それは自分勝手なものであるとナマエは自覚している。
 ナマエにとって義勇という男は、放っておいたら感慨もなく死んでしまいそうだった。生きたい、と生きなければならないは意味合いが違う。全く違う。
 気持ちだけで鬼が殺せるわけではないが、ただの義務感だけで人が生きられるはずがないのだ。
 ナマエは、義勇に対しては別段好意を抱いているというわけではない。しかし、根の深い仲になったこのまま人間を放っておくのも、後味が悪い。
 この男は自然な生き方を知らないだけなのだ、とナマエは決めつけて、ことあるごとに関わった。放っておくのは自分の信条に背いてしまうのだから。


「俺さ、鬼殺隊辞めようと思う」
 腹が膨れたせいか、舌の滑りがよくなったのだろう。ナマエは隠となってからずっと温めていたことを思わず口に出していた。
「やめてどうするんだ。隻腕のお前が雇用先を見つけられるのか」
「やってみないとわかんないだろ……それにもうお館様に宛てた辞表も書いた」
 ナマエが先ほどしたためておいた封を掲げてみせると、義勇は間髪入れずにナマエの手元のそれを抜き出した。「あ」と間抜けな声をあげたのはナマエだった。
 手紙を広げて、中身を検分していく義勇に、ナマエは訝しげな視線をやった。
「なんだよ。利き手じゃないがそれでも綺麗な字で書いたつもりだし、内容も確認した」
 義勇は顔を上げて、無言で封を自身の胸元に寄せた。
「義勇」
 たしなめるような口調で呼んで、ナマエは取りかえさんと立ち上がろうとした。そして、おい、と椅子に腰をすえたまま、険の入った声を出した。
「足、踏んでる」
 お前の足が、お前の右足を。
 素知らぬ顔で義勇は、麺をすすりながら、そのまま地に押し付ける力を強めた。わざとか、と呆れながら、ナマエはあいた足で踏みつけてくる足を押しやった。
「この前の兄妹の話でも思っていたが、お前のそういうところが嫌いだ。俺は。ちゃんとどうしたいか言えって」


 その告白を聞いたのは右腕を失って数日の、義勇が柱に任命されてから間もない頃だったか。
 鬼の妹が鬼殺しようとする義勇から兄を庇う素振りを見せて、彼女は他の鬼とは違うと感ぜられて、その兄妹を師範の元へやった。
 一本調子な話し方で経緯を語る義勇に、ナマエは眉根を寄せながら、「唐変木が」と蔑んだ。それを自分に話してどうするのかとも尋ねた。
 ナマエは鬼が嫌いだ。
 義勇の話を聞き終われば、今すぐにでも帰って妹の首を落とすつもりだった。
 義勇は、「どうしたらいいか分からない。だけどどうにかしたい」と、平坦な声で言った。

 その時、ナマエは、唐突な空虚感に見舞われた。話を聞きながら、義勇に転機が訪れたのだ、と真っ白に塗りつぶされた頭の中で一つの解を得た。
 この男がようやく、欲望を表した。
 安堵の暖かさの中に、ぽっかりと決定的な穴が空いた気がした。ははあ、子離れされた親はこういう気持ちか、と他人事のように思った。
 親の支え無しで地に足をつけて立つのすら億劫な子供がいつか自分の足で親元を離れるように、義勇だってナマエにいつまでも引っ張られる人間ではないのだ。
 ナマエがあえて鬼殺隊に身を置いたのは、給与と、師範への義理立てもあった。
 ナマエの心を引っ掛けていたの義勇への懸念だった。
 しかしその懸念はもう消えた。
 ー辞めよう。鱗滝さんは俺に鬼殺隊に残るかどうかは自分で決めろと言っていたし、給与だって別にいいところがあるだろうし。
 鬼への憎しみは心の奥底にきちんとある。だが、時を巻いて戻す術は無いし、何より民衆を鬼から守る腕がなくなった。その事実は悔しくも消えず、やはり仕方がないことだと割り切った。
 隠の仕事だって、悪くないものだが、いい加減日に当たって西洋の服でも着てみたいと思っていた。ちょうど良かった。その告白は、ナマエ自身にとって転機となった。

 ナマエは義勇の手元に視線を向けつつ、答えを待った。器に浮いた衣が、出汁をすって散り散りになっていた。
 ナマエは義勇の様子を伺った。皿を下げに来た店員が訝しそうに二人を覗いたが手で向こうに行くように示した。
「……もう少し」義勇は凪いだ眼差しをじいっとナマエに向けて、ようやく言葉を押し出した。「もう少し、待ってほしいよ。ナマエ」
 義勇の言葉に、ナマエは一拍間を開けてから、「まだ餓鬼か」と呟いた。すでに被り物をしていて、その表情は伺えなかったが、義勇が持っている手紙を取り返そうとはしなかった。


 冨岡義勇はナマエという男の性質を理解していた。
 兄妹の話をしたときも、とりあえず話だけしておこうと思っていただけだった。しかしナマエという男は義勇に答えさせた。自分にどうして欲しいのかを。
 義勇は数刻待たせた挙句に「あの兄妹を匿うのに協力してくれ」と、言った。ナマエが憎む鬼を守ってくれという願いを出したのを覚えている。
 ナマエは頷いた。その時も一言謗っただけで、それ以上は何も言わなかった。
 今思うと無意識のうちにナマエなら断らないだろうという確信があったのだ。
 よく自分勝手なことをのたまうが、義勇の独特な調子に根気強く付き合ってやったり、その意思を尊重しようとよく動いたのはナマエだった。
 ナマエが右腕を失ったあの瞬間だって、迫る鬼への反応が遅れた義勇を庇うように鬼と義勇の間に割って入ってきた。
 そのナマエが、何処かに行くのだけは嫌だった。避けたかった。理由はなかったが、引き止めなければならないと体が動いた。

 一人残された義勇は手元にある封を強く握った。

  

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