呪術高専の数少ない医師の一人である家入硝子は日々仕事に明け暮れていた。任務でボロ雑巾になった呪術者たちを一日でも早く現場復帰できるように手早く、丁寧に治療してやらなければならないのだ。
そして呪いに対して恐れや不安を抱いた呪術者にはセラピストまがいのこともしてやらなければならない。
なんせただでさえ呪い自体を視認できる人間が少ないというのに、その中から呪術師を目指す人間を抽出すれば頭が痛くなるほど分子は少なくなる。
出来るだけ続けさせるように――という上からのお達しに給料分だけ硝子は応えなければならなかった。
ただ、今このベッドで茫洋とした視線を膝下に落としている少女――ミョウジナマエに、硝子は続けるよう促そうとは思えなかった。
脱臼した肩をはめてやり、取れかけていた指を縫合し終えたばかりだった。ついでに言えば包帯の下の腕は痣だらけで、とても人前に出せる状態ではない。宿儺の指を持つ呪霊と会敵したのだという彼女は、その凄惨たる有様のまま五条悟に連れて来られたのだ。
硝子はそっと傍に椅子を引き寄せた。
「辞めるか?」
呪術師を。
そう、なるべく静かにたずねた。まだ麻酔が抜けていない状態だったので、やや遅れてからナマエは顎を上げた。据わった眼差しが硝子を射抜く。
ああ、死人のような眼差しだ、と硝子は内心思う。
「……」すう、と胸を膨らませて、ナマエは息をした。「五条さん、……あの人は、辞めませんよね」
五条――五条悟か。
ナマエは自分をここまで連れてきた男の名前を挙げて、硝子は虚をつかれた。ごまかすように咳払いをして、すこしもったいぶるように頷いた。
「ああ、奴は辞めんだろうさ」
「じゃあ、まだ、ここに居たい」
ナマエの答えを意外に思いながら、硝子は「わかった」と事務的に返して、その場を後にした。五条さん、とその人物を想ってから柔らいだ、その横顔を見ないふりをしてやるように。
今年の春、封印された特級呪物――両面宿儺の指を文字通り、「喰らった」青年が居た。彼の名を虎杖悠仁と言い、驚くことに宿儺に乗っ取られずにいたのだという。上層部は危険因子を排除せんとしたが、五条の口三味線により即刻死刑は免れていた。
しかし、そんな彼は先の任務−特級の呪霊相手に、一年三名を派遣したという異例のものだ−で心臓を失い、遺体として硝子の元にやって来た。
今から彼の、宿儺の器足り得る彼の、体を解剖(ひら)くことになった。
硝子は人知れず緊張をほぐすように細く息をついた。――何か、少しでも情報を得ることができればいいのだが。
「ちょっと、君達――」
準備を終えた硝子は未だに部屋に居座る五条と伊地知に視線をやった。
「――もう始めるけど、そこで見てるつもりか?」
五条が何か物言いたげに口を開きかけて、――不意にがちゃん、とあっけなく開いた扉に、そしてそこから入り込んだ人物に、硝子は目を見開いた。
「こんにちは、家入先生」
時代錯誤ともいえるような呪術師の黒い制服を着こなした、虎杖と年が変わらぬ少女――ミョウジナマエは当然のようにこの遺体安置室に入ってきた。
「ミョウジ、どうしてここに?」
「どうしてって……」
「僕が呼んだ」五条は体を起こして、虎杖が横たわるベッドを示した。「ちょっと見てくれってね」
「君ね……」
「そういうことなので、失礼します」
ナマエは硝子の隣に立つと、裸のままの虎杖を何も気にしない風に観察していった。頭のてっぺんからつま先まで、品定めをするような眼差しを注ぐナマエを、硝子は横目で眺めて、諦めた風に肩を下げた。
ミョウジナマエには、術式が刻まれていない。呪力だって人並みで、特別な家から生まれでたわけでもない。ただの一般人だった。
そんな彼女が何故、過去に宿儺の指を持つ呪霊の討伐任務に駆り出されたかと言えば、すべて彼女の「目」のおかげとも、そのせいだともいえる。
彼女は過去、呪いによりその瞳に強力な呪印を刻まれて、晴れて呪眼の保有者となった。
彼女には人に刻まれている呪式やあらゆる呪力の「流れ」が見えるようになってしまった。
人から流れ出る、あるいは物体に詰まる負の感情。それは個々によって形が異なるらしく、ナマエは宿儺の指の出処も判別することができた。
呪力を感知、視認する能力だけならばナマエの目は五条さえも上回る。おそらく、五条は本当に虎杖が死んだのかを確かめて欲しかったのだろう。
「……なるほど」
ナマエは眉間をもみながら、虎杖を視界に入れないように体を反転させた。
「なにかわかったか」
「気持ち悪いです」
「気持ち悪い」
ナマエの率直な感想を思わず復唱してしまう。がたり、と五条が音を立てて立ち上がった。
「ナマエ、それってもしかして」
五条の問いにナマエは力なく頷いた。
「はい。彼の中で宿儺の呪力と、僅かですが別の……おそらく彼の呪力が暴れています。……彼は、まだ生きています」ナマエは息をのんだ。「彼は、心臓を、抜かれていますよね?……それなのに、こんな……」
震えた声のまま、信じられない、という風な視線を五条に送った。
「嫌なものを見させてごめんね、来てくれてありがとう」五条はにっこりと笑って、手を振った。「もう戻っていいよ、お礼に後でお土産をあげよう」
「いえ、別にいいです」
シャッターを勢いよく降ろすようにぴしゃりと言い残してから、ナマエは先と同じような足取りで出て行った。しかしその横顔は気の毒なほど血の気が引いていた。
硝子は知っていた。
ナマエは呪眼を持つだけの、普通の女子高生なのだ。
高専に入ったのだって、目の使い方を習うためだったし、宿儺の指の探索だって彼女にとってはていのいいアルバイトという認識だった。
指を持った呪霊と会敵して、心身ともに一般人では到底耐えきれない損傷を与えられた時に硝子は確かにナマエの心は折れたものだとばかり思っていた。
しかし、違ったのだ。
治療を進めるうちにナマエは感情の吐き出し所がないせいか、医師である硝子にぽつぽつと事の顛末を話しだした。
宿儺の指により力を得た呪霊はまず発見者であるナマエを攻撃した。特級に至りかけていた呪霊のたった一撃で、彼女の体は大破して、すでに一人で動くことも叶わなかった。
そんなナマエの傷を見て、その場にいた呪術師たちは彼女の生還を諦めて、あるものは逃げようと、あるものは指を保管すべく祓魔せんと動き出した。彼らは皆、特級にまで至った呪霊の手によって呆気なく命を散らしていった。
鼻にまとわりつく鉄のにおい、皮膚を痺れさせるようなほど鋭い阿鼻叫喚。冷たくなっていく体。そんな地獄の中で、道端の小石のようにその存在を見捨てられたナマエはただただ失望と絶望を味わっていた。
そんなときに、増援としてやってきたのは五条悟だった。
五条は虫の息であったナマエの救命を何よりも優先してくれて、その身を案じてくれていた。
そのことが刷り込まれたかのように、ずっと胸にのこっているのだという。
ナマエは五条に対して恩義を感じていたのは間違いない。なんせ彼女はすました風に振舞うが、五条がいない間はとても素直だ。それにその時の傷が完治しても、呪眼のコントロールができるようになっても、一般人には戻らなかった。
未だに呪専に籍を置き、呪いへの嫌悪感や恐怖、人の遺体への本能的な拒絶感をのみくだして、呪術者として任務をこなす日々を送っているのだ。
五条がここにいるから、と。
ただ――
「悪いことしちゃったな」
ナマエの華奢な背中を見送った五条は嘆息した。彼も、ナマエの人の遺体や宿儺の呪力に恐れを抱いた姿に気付いているのだろう。
「イカれてるわけでもないのに、宿儺の指で散々な目に遭ったのに……あの子はどうしてまだ高専に居るんだろうね」
「……」
――この五条悟という男は、生徒思いのナイスガイと自称するように、生徒である彼女を助けるのは自明の理であり、特別なことではないのだ。だからナマエがくだんの任務をきっかけに、自分へ好意を寄せているなんてことに気づいていない。
彼女の性質は理解しているのに、自分に向けられる感情には全くもって疎い。
見ないふりをしてやったあの柔らかな横顔を思い出し、硝子は五条の疑問に一言、「朴念仁」と返してやった。