初めて飯を食った。初めて風呂というものに入って湯浴みをし、初めて布団の中で夜を越した。
主さまがいつも飯を食べる前に決まって「いただきます」と言って手を合わせていたのを真似し食べた飯の味は何もかも初めてで、何とも言い難く、しかしこれが美味しいということだと知った。
最初こそ錆びるのではないかということを恐れて自分を湯につからせるのは怖かったが、体の芯まで温まるのは心地よかったし、柔らかく肌触りのよい布団の中で眠るのは床の間や蔵に置かれて眠るより何倍も眠くなるのが早く感じた。

私が人間の体を得てから、知ることが山のようにあり、日常はめまぐるしく退屈している暇がない。
それに、私が知ることはこういった人間の日常の生活だけではない。審神者としての仕事を私は覚えねばならなかった。
そのために日中は部屋に籠り、時の政府の男からの話を聞きながら、それを紙に書き留めていくのだが、日常の動作もろくに分からないというのに筆を何時間も動かし続けることはなかなかに私を苦しめた。
しかし、毎日の飯や風呂や布団で寝ることは、日々ほとほと疲れ切った私を癒すのに十分だった。

「慣れとは怖いものよなあ」

最初の頃は自分が刀として生きれなくなることがなにより怖かったのに、それを考える暇も与えぬほどの忙しさに日々追われて、自分がどんどん人間臭くなっているのが分かった。
それももうひと月。
流石にこんなことをひと月も繰り返していれば、慣れるのも当然であろう。今は寝る前に窓から月を見るくらいの余裕があるくらいなのだ。それとも、ただ私が呑気なだけなのか。私は昔から暇を持て余していたので、無駄に気が長くなってしまっているのには自信はある。
私がどうあがいても戦場に出て人を斬ることは、未来永劫ないのだろうかと思いながら月を見ても、当然月はただ空に浮かんでいるだけで私に何を返してくれるわけでもない。自然と口からため息が漏れ出た。

どんなに人間臭くなろうとも、私は刀であることは変わりないのだから、たまにこう思うくらい、許してほしい。





ざっと十余名がいる部屋に一口の刀。
その刀の前には、緊張した面持ちの男達と、同じく緊張した面持ちをしているが、男達の緊張とは天と地ほどの差を持った緊張をしている私がいた。久しぶりに大勢の人に囲まれて、その一人一人に見られているというのが私の緊張に拍車をかけている。

今日はいよいよ私に宿っている特別な力を試し、自分の本丸を築くこととなる日であった。
失敗しないよう毎日努めてきたものの、昨晩の私は今日のことで頭がいっぱいになり、若干目に隈が出来ている。未だに本当に自分に出来ることなのか分からなかったし、この力の使い方の説明も受けたがざっくばらんな感じでどうも不安だった。しかし、よくよく考えてみれば、私が降ろされた日、特に何をせずとも刀に触れた途端反応したのだから、あのままえいと念じ続けていれば付喪神を降ろせたのかもしれない。
まあ、いずれにせよやってみないことにははじまらないのだが。

「で、では、はじめてもよろしいでしょうか?」
「お、お願いします」

いつも仏頂面で、面白いことの一つも言わない時の政府の男も流石に今は緊張しているのがよく分かった。
今までの日々を無駄にも出来ないと腹をくくって、私は刀に手をかざし、目を閉じた。すうっと息を吸って、吐く。ただ私は教えられたように念じればいいだけ。万が一成功しなければ、私は使い物にならない鈍として扱われるかもしれないので、それだけは嫌だなあと思いながら、お願いだからうまくいってくれと邪な気持ちも混じりつつ祈った。

これから降ろす付喪神の刀は山姥切国広という名で、私が当初に触った刀だ。どのような者かは知る由もないが、ひたすら私は念じ続ける。

「ん……?」
「おおっ……成功だ!成功したぞ!」

しばらくすると、男の声と瞼を閉じていても分かる光に、事がうまくいったかを私に知らせてくれた。この前は本当に一瞬だったからよく分からなかったけど、久々に感じる淡い光はどこかやさしい感じがする。
そして、ゆっくりと目を開くと、目の前には布を頭にかぶった男が座っていた。

「俺は山姥切国広。足利城主長尾顕長の依頼で打たれた刀だ。…山姥切の写しとしてな…って、何故泣いている?」
「すみません…なぜ、でしょうね。突然、涙が出てきてしまいました…」
「…お前は理由もなく泣くのか?」
「いえ、おそらく、貴方を無事お迎えすることができて、うれしいのだと、思います」
「おそらくなのか」
「色々な気持ちが混ざっていて私にもよく分からないのです」

本当に自分の中に特別な力が宿っていたことや、周りからの期待にそぐえたこと、そして何より付喪神、山姥切国広という男を迎えることが出来て本当によかったこと、それ以外にももろもろと思うところがあって、勝手に私の目から何粒も涙がこぼれていた。拭っても拭っても次から次へと溢れ出してくる。事が成功したことで、これでもう、私は刀として生きることができなくなることが確定してしまったから、今更悲しくなってしまったんだろうか。
初めて人間の体を得た自分を前にしているかのように、彼は不思議そうな眼差しで私を見ていたが、それもなかなか泣き止まない私を見て、少し動揺したものに変わった。
涙を拭ってもあまり意味はなかったが、とりあえずは挨拶をせねばと思い口を開く。

「取り乱してすみません…」
「変なやつだな…」
「えっと、とりあえずは…これからよろしくお願いいたします、山姥切国広殿」
「お前が俺の新しい主か?」

一瞬言葉が詰まって出てこなかった。
主とは決して刀ではなく、人間のことを指すからだ。しかし、ここで刀と言ってはいけないことは、よく分かっていた。単に後ろで私が付喪神を降ろすことに成功したことを喜んでいる男達に言われたからであり、それが面倒なことを起こすなと暗に言っていたことも理解できた。ただでさえ歴史改変主義者へのことで忙しいのだから、これからは私のような異例にいちいち構っている暇はなく、私が人間として振る舞っていた方が何かと都合がいいのだろう。見た目だけは、人間の女と何も変わりはしないのだから。
そうして私は喉から声を絞り出した。

「主……そう、ですね。…そうなります」
「…なんだか頼りないな」

私だって、何が何だか。それなのに、彼はこんな私の元に来て、可哀相に思う。

しかし彼を前にして、ふと、私はいままで大事に扱ってくれた主のことを思い出した。
これからは私が主のように、まさに刀の主として生きてゆかねばならない。刀としてではなく、人間として、私はこれから何を思って生きていけばいいかということが一つ、今、心に浮かび上がった。
歴史改変主義者どうこうはひとまず置き、それを抜きにして私を大事に扱ってくれた主の、生きた歴史を守ってあげたいと思った。それが今の私には出来るのだから、そうしたいと思った、
これから私は、否が応でもこれからは人間として生きてゆかねばならない。だがそのためになら、人間として生きてもいいと、思ったのだ。
そのためにはもちろん彼の力を借りねばならない。そう思うと、少しだけ気持ちが前に向いた気がして、いつのまにか涙は止まっていた。

「申し訳ないです。ですがその分、貴方の力を頼りにしていますね」
「ふん…どうせ本心では、俺が写しだからとそこまで期待していないんだろう?」
「写し?それがどうしたんです?」
「どうしたもこうしたも…」
「そんなことを気にするのは、この場で貴方一人だけですよ」
「……だが」
「貴方の価値は写しがどうこうではないと思うのですが…」
「………っ」
「どうされました?」
「……なんでもない、気にするな」

突然彼は写しが何とか言い出したけれども、自分に自信がないのだろうか。そんなことを言ったら、私なんか生涯をほとんど床の間か蔵で過ごした引きこもりである。私の持つ自信なんぞ、そよ風に吹かれればすぐに飛んでいってしまいそうなほど儚いものだ。
それに、しっかりと名を与えられた刀の付喪神なのだから、頼りにならないはずがない(私は頼りにならないが)。依って、写しがどうこう気にしているのは、この場で彼以外誰もいないのである。
素直に私がそう言えば、今度は顔を真っ赤にして彼は「やっぱり変な奴」と呟いて俯いてしまった。



まえ つぎ
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