あ。

そんな短い音さえも、俺からは発することはなかった。そんなことすら、俺は出来なかった。音は咽頭で止まり生ぬるく湿った空気として吐き出された。

「あ。」

つう、と視界の下方ら辺に温い水がレンズと皮膚の間に少し挟まり、そして直ぐに頬まで垂れた。
今度こそ音になり、微かな叫び声となった。
生温い音は弱く、それでも教室の奥にいる謙也と女に聞こえたようで二人は此方を振り返った。

謙也は心底嬉しそうな、それでいて何処か不安そうな複雑な顔をした。






俺は、授業終了後に謙也と下駄箱で待ち合わせをしており、一緒に帰る約束をしていた。

授業が終わって、俺は筆箱にシャープペンシルをしまってノートや教科書を閉じた。
周囲は次第にかまびすしくなり、ちらほら教室を出ていく人達が見えた。
グループで帰ろうとする女子や、廊下で待ち合わせの彼女のためにそそくさと鞄を肩にかけ教室を出ていく男子、皆各々の時間があって予定があるのだと、頭の片隅で悠長に考えた。
薄く艶やかな鞄に教科書と筆箱をしまう。

そんな俺は、この後は謙也と一緒に帰る。それは俺の時間でもあり謙也の時間でもある。
他の人から見ればどう捉えるだろう。
従兄弟同士とか、仲がいいとか、親友だとか、似た者同士だとか。
全て当てはまってはいるとは思う。しかしそれだけだろうかなんて、考えが頭に浮かんだが、瞬時に億劫になって考えるのを止めた。

ごちゃごちゃしたことを、今は考えたくはなかった。
今日は謙也と一緒に帰るのだ。
嬉しいとか、楽しいとかを越えて、淋しいとか、苦しいといったもの。俺の中での謙也はプラスのものが何故かマイナスになってしまっている。
それだけを考えるだけでも体力消耗してしまうし、考えた後で謙也と会うのもやるせ無いのだ。

小さな溜め息を吐いて、教室の壁に掛かった時計を見た。謙也のクラスも終わった頃だろうか。俺は薄い鞄を肩にかけて下駄箱へ向かった。


下駄箱につくと、ちらほらと人は居たが、殆どの人は帰ったようで授業後の喧噪さはなかった。
正面玄関からは冷たさを帯びた風が入り込み、もう秋だと感じた。さっきまで夏だと思っていたのに。
そういや、秋になると、人間は淋しくなるのだとテレビで言ってた事を思い出した。そうだ、こんなに淋しくなるのは秋のせいだ。俺は無理矢理自分に言い聞かす。
じゃあ、苦しいのは?
苦しいのは秋のせいには出来ないだろうか。
一人でいると何時もこうだ。考えないようにしてもふわふわと何処からか思考が出てきて頭の中を一杯にする。
外は次第に夕焼け色に染まっていく。時間はどんどん過ぎた。外の風のせいで手先が冷たい。



謙也はいつまでたっても来なかった。
今日は、何か用事でもあったのかと考えるけれど、約束をしてきたのは向こうからなのに。
余りにも遅いために教室まで迎えに行った。

廊下の窓から入る夕焼けは俺を急かす。そわそわしてしまっていて、らしくないなと自分で感じた。
通りすぎる教室は人が全く居なかった。もうこんな時間だから当たり前なのだけれど。時計は5時過ぎを指していた。

廊下を進むと謙也の教室が見えてくる。教室のドアは開かれていた。しかし、電気はついていない様だ。

もしかしたら謙也は用事を忘れて帰ってしまったのかもしれない。後で謙也になんて言って怒ろうか、なんて早めていた足を緩める。
教室に近づくにつれ、高めの女子の声が聞こえた。低い男の声が微かにする。

(謙也?)

そっと入り口から教室を覗く。
そこには謙也が、表情がコロコロと変わる女の子と愉しそうに話していた。女の子は頬を赤く染めている。

(何でこないな所であぶらうっとんねん)

頭を抱えたくなった。俺はこんなにも下駄箱でまっていたというのに。

俺は小さく溜め息を吐いて声をかけようとした時、彼女の肩に謙也は腕を回すと、そっと顔を近づけキスをした。

(え?)

思うより先にどくり、と鼓動が跳ねる。全身の毛が逆立つ様だった。手はジワッと汗ばむ。
そして、今動き出したかのように心臓が収縮、弛緩を繰り返し、煩い。胸の中が、今までの苦しさの何万倍で、どうしたらいいのか判らない。気持ち悪い。

それよりも。
なんで。
何で、何で、何で。

なんで、俺は傷ついてしまっているのか。
ぽっかりと空いた黒い穴の奥に、呑み込まれる。






女は教室を出ていった。俺の横を通りすぎる際には、舌打ちをし、鋭く睨んだ。
俺は泣いていたのだ。こんな、しょうもない従兄弟のキスシーンを見て。溢した惨めな涙は直ぐに手で拭った。

「…なんや、邪魔やったみたいやな‥すまん」

皮肉のつもりで出した言葉が涙声になってしまい、余計に自分が惨めだった。

「侑士」

名前を呼ばれるだけで苦しい。目頭が熱くなる。また涙が溢れそうになる。

「来てくれると思ってたで」

謙也は安堵したように微笑んだ。
お前が遅いから来たんや、とか、こっちはめっちゃ腹立ってんねん、とか言いたいことなんて一杯あるはずなのに。
声に出そうとするとわっと泣けてしまった。

別に、俺には関係無いはずなのに息が出来ないほど悲しく、どうしようもなく苦しい。

「‥苦しい?」
俺の気持ちを読み取ったように聞いてきた。謙也の穏やかな声に、未だにしゃくりあげて泣く俺は、頷くしか出来なかった。
謙也は、そっと俯く俺の肩に手を置く。

「俺も。侑士が、俺以外の人のことを考えてる、なんて想像したら、胸が苦しくなった。侑士が、俺だけを見てくれるにはどうしたらええのか、ずっと、ずっと、今まで考えててん」

謙也は少し早い口調で、けれど噛み締めるように呟いた。置かれる手には、力が入っていて俺の肩をぐっ、と掴んだ。鈍い痛みを感じた。
それ以上の痛み。
気づきたくなんて無かった。今まで何かに理由をつけてきたのに。

「けど、今判ったわ」

謙也の眼は、赤く充血し潤んでいた。そして鼻を啜る。俺が傷つくことが一番の考えだと言うのなら。
謙也に嫌われないように俺はそれに答えるだけ。謙也に好きでいてもらえるように。

「侑士が俺だけを見てるように、俺のことしか考えられんくなるようにさせたるから」

もう、十分なっているのにこれ以上どうしろというのか。
俺はお前以外誰も望まない。(お前もそうやろ?謙也)
謙也の声は震えていた。

「酷いこともしてしまうかもやけど、堪忍な」

せやから、ずっと好きでいて、と涙声で謙也は俺に抱きついた。

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