さよならモラトリアム | ナノ


▼ 反芻

デパコスに憧れていた時期があった。

正確には『シンイチロー君にデパコスを贈ってもらえる女性』、というものに憧れていた。



「真兄、それ彼女へのプレゼント?」

無邪気なエマの質問に、肩がびくりと跳ね上がった。

「今度のカノジョの誕生日にプレゼントするんだよ。刻印まで彫ってもらったんだぜ」
「それ本当にカノジョ?シンイチローの妄想じゃなくて?」
「本当だっつの!」

揶揄うマイキーの額を、シンイチロー君はペシリと叩いていた。
シンイチロー君が彼女さんに用意していたのは、今の私でも身につけるには少し敷居の高い、お姉さん向けのブランドのリップだった。私にはそれがとても特別なものに見えて、彼女さんが羨ましくて羨ましくて仕方なかった。
結果的に彼女さんの誕生日を迎える前にシンイチロー君は振られてしまい、そのリップをプレゼントすることは叶わなかったみたいだけど。

「じゃあウチ欲しい!」

小さい頃からオマセさんだったエマは、大人のお姉さん用のリップを欲しい欲しいと強請っていた。

「まぁ…どうせ持っててもな…刻印も彫ったから売れねぇだろうし」
「やったぁ!」

シンイチロー君は哀愁を漂わせながらエマにあげていた。エマの手に渡ったリップには、さして珍しくもない女の人の名前が彫られていたのを覚えてる。ちなみにシンイチロー君は恋多き男だったので、シンイチロー君の好きな人の名前を知るのはこれが初めてじゃなかった。

「塗ってみようよ名前」
「わたしもいいの?」
「うん!」

大人のお姉さんのリップを、まだ小学生だった私達はドキドキしながら唇に載せた。高発色だったそれは幼い私達には全然似合ってなくて、2人で笑い合ったのを覚えてる。その姿をマイキーとバジに見せれば、更に爆笑された。

「エマと名前はもっと可愛い色のが似合うな」

それでもそう言って頭を撫でてくれるシンイチロー君のことが、やっぱり好きだった。
シンイチロー君はそう言ってくれたけど、いつか大人な色のリップが似合う女になりたいと思ったのだ。







「名前にプレゼント届いてるよ!お誕生日が近いからかな?」

あんずを変な奴から守ってあげて数日が経った。あんずは私の名前を呼び捨てにしてくれるようになったし、私も前よりも遠慮なくあんずに接する事が出来るようになっていた。

「やったー!このブランド憧れだったんだよね」

夢ノ咲のアイドルにはファンレターやプレゼントが届くことがあって、それを仕分けするのもあんずの役目だった。
あんずが私に持って来てくれたのは、幼い頃に憧れていたデパコスのブランドの紙袋だった。この大きさ、もしかしてリップだろうか。今でも少し敷居の高いこのブランドのものを贈ってもらえるのは、素直にテンションが上がった。

「プレゼントだけ?手紙とかはついてなかった?」
「カードが同梱されてたよ。名前しか書いてなかったけど…」

本当だ。紙袋の底を覗き込めば、小さな封筒が入っていた。カードはとりあえず置いておいて、箱を開封することにした。
丁寧に中を確認すれば、昔シンイチロー君が彼女さんに贈っていたものと同じラインのリップが入っていた。

「これ…」

キャップを開けて中の色を確認すれば、あの時の不釣り合いな色ではなく、高校生の私でも似合うような、可愛らしい色のものだった。
刻印には私の名前がローマ字で彫られている。

「名前に似合いそうな色だね!」

まるで時を越えてシンイチロー君がプレゼントしてくれたようだと、少し泣きそうになってしまった。そんなはずはないのだ。シンイチロー君はもう何年も前に死んでいる。でも今だけは生き返ったような錯覚に陥って、泣きそうになるのを必死に堪えた。

「誰がくれたんだろう…」

カードの入った封筒を開けた。あんずが言った通り、中には名前が書かれたカードが1枚だけ入っていた。

「しっ…」

カードに書かれてプレゼントの差出人の名前は『シンイチロー』だった。雑に書かれたその字は、それでも見覚えのあるものだった。

シンイチロー君はもういない。シンイチロー君が彼女さんにこのリップを贈ろうとしていたのを知っていたのは、シンイチロー君本人と、エマと、バジと、マイキーの4人で、今生きているのはマイキーだけだ。

別の『シンイチロー』君が贈ってくれた可能性が無い訳ではないが、こんな偶然あり得るのだろうか。

「名前…?」

これを私に贈ったのはマイキーだ。
私が「エマと名前はもっと可愛い色のが似合うな」と言われて喜んでいたのを、マイキーは見ていた。口を尖らせて見ていたのだ。

「馬鹿じゃないのっ…自分の名前で贈ってよ……」

シンイチロー君の名前で贈った方が喜ぶだろうと、そう思わせてしまったのは私の方だ。私がちゃんとマイキーの気持ちに応えていたら、マイキーは今もドラケン達と一緒にいて、自分の名前でこれを私に贈ってくれていたのかもしれないのだ。

ハラハラと泣き始めた私を見て、あんずはビックリしていた。このままではあんずに気を遣わせてしまうから「ごめん」と一言告げて慌てて廊下に出た。足早に廊下を進んでいれば、滅多に会わない夏目と出くわした。

「エッ…どうしたノ君」
「何でもない」

吐き捨てるように言って、夏目の横を通り過ぎた。少し傷ついたような顔を見せた夏目に、後で謝らなきゃと後悔したけど、今の私は自分のことで精一杯だったのだ。



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