俺の幼少期はクソみてぇなもんだった。思い出すのも忌々しいくらいに、クソみてぇで、死にたくて、殺したくなるような日々。
だからといって大切な思い出が何一つ無い、という訳ではない。
『お兄ちゃん』
俺に縋ってくる小さな妹の、小さな手のひら。
『左馬刻』
俺たちを必死に守ろうとする、温かい母親の、ボロボロな優しい手のひら。
後は_______
『左馬刻お兄さんから、苦しい気持ちが全部消えますように』
不器用ながらも、精一杯俺たちを励ましてくれた彼奴は、確か…
「…左馬刻お兄さん?」
「は」
通り慣れたハマの街並み。
そこで偶然出会した、チンピラと女子高生のイザコザ。やれこの後暇なのかだの、俺たちに付き合えだの、失笑モンのナンパをするダセェ奴等なんざどうでもいい。が、女子高生が着ている制服が見覚えのあるデザインで。俺の記憶違いでなければ、妹の通う高校のものだ。だからなんだという話ではあるが、単直に言えば気が向いたのだ。元より弱い女を力強くでどうにかしようとする野郎には反吐が出るのもある。
「おうテメェら。程々にしておけ」
煙草を吹かしながらチンピラ達を一瞥すれば、そいつらは俺の事を知っていたのか、慌てて引き下がっていった。なら最初からくだらねぇ事なんかするなや。
恩を売るつもりで動いた訳ではない。妹の知り合いだったとしたら、俺が兄だとバレれば逆に面倒だ。そう思い足早に立ち去ろうとした時、耳馴染みのいい声が鼓膜を震わせたのだ。
「やっぱり、左馬刻お兄さん」
「…テメェ、名前か?」
「嬉しい、覚えててくれたんだ」
くすぐったそうに目尻を下げて笑う名前の笑顔を見たのは何年振りだろうか。俺が裏社会に入ってから会った記憶は無い。今の半分程度しかなかった(流石に言い過ぎかもしれないが)身長はあの頃よりも伸びて、顔立ちも、身体つきも、少女から女へと成長していた名前。だが笑い方だけはあの頃と変わらない。その事に対して心が温かくなった感覚に、自分でも驚いた。
「今ね、碧ちゃんと同じクラスなんだよ私」
毎日楽しい、と綻んだ顔を見て、妹も同じ気持ちでいるのだろうと察して、妹が真っ当な高校生活を送っている事に安心した。
「この前一緒にお出掛けした時の写真見る?」
妹は名前の事を誰よりも信頼していた。所謂、親友という間柄なんだろう。恐らく俺がヤクザだって事も、妹から聴いてるはずだ。それなのに、昔と何も変わらない笑顔を名前が向けてくれて、昔と何も変わらない態度で接してくれた事が、なんといえばいいのか。
救われた、なんて言えば大袈裟かもしれないが。妹を養う為とはいえヤクザになったという罪悪感が、少しだけ軽くなった気がしたのだ。兄としての本質は変わらないのだと、そう言ってくれているような気がしたのだ。
「今時間無ぇから、後で送ってくれ」
嘘だ。写真を見る余裕くらい、ある。
だが気がつけば、前に乱数が使っていたナンパテクを何食わぬ顔で使って、連絡先を交換していた。
『ここのクレープがすごく美味しくて!』
『碧ちゃんのお気に入りはいちごカスタードだよ』
『毎月第2土曜日は2人でお出掛けして甘いもの食べる約束なの』
名前から送られてくる写真と、たわいのないメッセージ。
妹と離れ離れで暮らしている俺を気遣ってか、内容は妹との近況報告がほとんどだった。口下手な妹だから心配していたが、そんな俺の心配をよそに楽しそうに笑う顔を見て、自然と口角が上がっていた。
それなりに返事をしなければと思いつつ、メッセージのやり取りはしゃらくせぇ。電話マークのアイコンをタップして、発信画面に切り替わればすぐに応答があった。
『まさかの電話!』
「ちまちま文字打つのたりぃ」
『碧ちゃんはちゃんと返してくれるよ。むしろ、そっちのがお喋りさん』
「まじか」
彼奴が文面とはいえお喋り?兄妹として過ごして十数年、そんな意外な一面があるとは。
『左馬刻お兄さん、結構暇なんだね』
「時間作ってやってんだよ」
翌る日も、俺は名前と通話をした。
決して長電話では無い。10分、20分程度のものだったが、それはその次の日も、次の次の日も続き、いつの間にか日課のようなものになっていた。
『彼女さんとか怒らないの?女子高生と電話してて』
「ああん?そんなのいねぇよ」
『…愛人さん?』
一応俺がヤクザという認識はキチンとあるらしい。いらねぇ知恵をつけやがって。
「そういうテメェは彼氏の1人2人いねぇのかよ」
今は愛人などいないが、定期的にそんな女は飼っていた。それを正直に言う気には何となくなれなくて、質問に質問を返して誤魔化した。
『いないよう。…羨ましいけどね。この前友達が彼氏とイルミネーション見に行った話とか、憧れちゃった』
なんとまあ、年相応の答えが帰ってきたものだ。
「イルミネーションなんざ見て何が楽しいんだよ。ただの電球だろ、電球」
『綺麗じゃん!それに、好きな人と見れたら幸せな気持ちになれるんだよ!…きっと』
「ほ〜」
そういうものなんだろうか。
『…実はね、彼氏はいないけどクラスの男の子に見に行こうって誘われてるの。その子の事好きかどうかは分からないんだけど、行ったら幸せな気持ちになれるかな?』
ガン、と癖の悪い足がテーブルを思い切り蹴り飛ばしていた。
『え?すごい音したけど大丈夫?』
そのけたたましい音が名前に聞こえたようで、心配そうな声が返ってきた。
「…足テーブルにぶつけた」
『痛そう』
気をつけてね、と悲しそうな声が聞こえてくる。此奴は誰にでもそうなんだろうか。例えばその誘って来た男とやらも、痛い思いをしたら心配するのだろうか。
「…今から行くから厚着して待ってろ」
通話するのにも飽きた。顔も見えねぇのに話すなんてしゃらくせぇ。そのクラスメイトやらも、名前の顔を見て喋ってんだ。
俺だって直接会って話すべきだろ。
『どういうこと!?』
「ちゃっちい男になんざ騙されねぇように、俺が大人のイルミネーションとやらを見せてやるよ」
車のキーを持って、一応そこらに転がっていたブランケットも持って、家を出た。向かうは昔よく妹を迎えに行った、名前の家。
「綺麗…」
「イルミネーションなんざより、俺はこっちのが好きだな」
車をかっ飛ばして着いたのは静かな海沿い。海面に街の光が反射して、静かに輝いていた。案の定薄着で待っていた名前に持ってきたブランケットを羽織らせ、車から出て軽く辺りを散歩をした。
「左馬刻お兄さんは大人だなぁ」
「名前よりはな」
「こんな素敵な光景を見た後にイルミネーション見ても、上手くリアクション取れない」
んなもん、行かなきゃいいじゃねぇか。というかまだ行く気だったんかテメェ。
「ここよりヘボいとこ連れてくような野郎に着いて行くんじゃねぇぞ」
「ハードル高い!」
俺の発言の真意をどこまで汲み取れているのか。カラカラと笑う唇に、キスでもすれば伝わるのだろうか。
…キス、俺が。
名前に?
「…なるほどな」
そこまで考えて、ようやく自分で自分の真意に気がついた。無意識とか、バカか俺は。
「左馬刻お兄さん?」
「名前、」
不思議そうに俺を見上げてくる名前に、本当にキスしてやろうか考えてやめた。まだ小娘で、初めてだろうから、それなりに段階を踏んでやらねぇと気の毒だ。
「覚悟しておけよ?」
「?」
歳の差とか、ヤクザに倫理観求めても仕方ねぇ。あと2、3年すればそれこそ気にならなくなる問題だ。名前相手なら妹だって喜んで応援してくれるだろうし。何も、問題無い。
名前にちょっかい出してる野郎の事はすぐに特定出来た。校門前で待ち伏せして、偶然を装って近づいてきた男。名前の方は別にそいつなんか居ても居なくても、といった無難な笑顔で対応していた。まぁ、俺と居た時の方が遥かに楽しそうな顔をしてな。そこに関しては悪くねぇ気分だ。だが、そこ以外は気にくわねぇ。
名前と野郎が別れた後、野郎の後をつけてちょっと付き合ってもらう事にした。
手はあげると後々面倒だ。名前にも妹にも、迷惑がかかる可能性がある。
「二度とヘラヘラ歩いてんじゃねぇぞ。目障りなんだよ…あぁ!?」
「ごめんなさい、ごめんなさい…」
「んとに分かってんだろうなぁ?今度見かけたらタダじゃおかねぇぞ」
「はい…」
だからわざとぶつかってやって、難癖つけて路地に連れ込んだ。
何も悪い事なんざしてねぇのに、泣いて謝って、情けねぇ奴。不運にもチンピラに絡まれたのだと、野郎は勘違いしているだろう。しかし泣くほど怖い思いして、その後女連れの時にまた俺と会ったりしたら…そんな恐怖はもう拭えないだろう。
「じゃあな」
運が悪かったよ、お前。名前に近づきさえしなきゃ、俺に絡まれる事も無かっただろうによ。
野郎を鼻で笑いながら、片手間に通話アプリを起動した。そろそろ家に帰ってる時間のはずだ。
「よぉ名前。前言ってたアレ、イルミネーションだったか?見に行くぞ…あ?気が向いたんだよ。付き合え」
暖かい格好で来いよ、と言いかけて止めた。
流石に昨日今日で暖めてやるよ、なんてホテルに連れ込めはしねぇだろうが、今日は朝から煙草我慢してんだから、キスの1つや2つ、させてもらうつもりだ。そしたら彼奴だって嫌でも今後の身の振り方ってもんを考えるだろ。
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