忘れてゆく



いつからか、メモ帳が手放せなくなった。それすらも思い出せない。
怖くなって病院に行ったら、一種の記憶障害だと診断された。
けれどこんな事、彼には絶対言いたくなくて、心配かけたくなくて。

「静雄ー、仕事いくどー」
「はい、今行きます」

すみません、貴方の名前ももう、覚えられないみたいです。

家に帰る事が出来なくなった。帰り道が分からないのだ。
メモ帳に大きく地図を書いたはずなのに、それを理解するための能力が無い。
折原と喧嘩して家を自分で破壊してしまったと嘘をつき、事務所の傍らでひっそりと暮らしている。

「静雄、飯買ってきたけど喰うか」
「はい、有難う御座います」

愛しい人なはずなのに、大事な人なはずなのに、どうしても名前が思い出せない。
気付かれないようにメモ帳を捲ると、必死に何度も何度も書き綴った田中トムという名前。
これがこの人の名前だろうか。でも違っていたら怖い。
大切なはずの彼の名を、いつから呼べなくなったのかすら、俺はもう分からない。


「静雄、お前最近煙草吸わないな。やめたのか?」

どきり、とした。
俺はまた何か忘れてしまったのだろうか?煙草ってなんだろう?
とりあえず、合わせるように相槌を打つ事しか、出来ない。

「はい、そうっす」
「槍でも降るんじゃねーのか、チェーンスモーカーのお前が禁煙だなんて」

お願いだから、もう何も言わないで。
貴方にはずっとずっと、笑っていて欲しいから。
この会話を交わした後から、メモ帳はメモ帳の意味を成さなくなった。
俺はもう駄目だ、この人の傍にいられない。

(田中トムさん、俺は貴方をちゃんと愛せていましたか?)

それから一カ月後、平和島静雄は池袋の街から姿を消した。


end.

since*2010.11.27 水沢

いつかのツイッタログ。続きません。
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