情報屋の不毛な恋



俺はいつものようにシズちゃんの車椅子を押して老人ホームの庭に出る。
70をとうに超えた頃、俺とシズちゃんは仲良く同じ老人ホームに入居した。しかも相部屋だ。こんなに嬉しい事は無い。
しかしひとつだけ、問題があった。彼が数年前に痴呆症になったのだ。
自分の名前も分からないし、自分がなんであったかさえ思い出せないし、多分おそらく。
おそらく、俺の顔ももう覚えていないし、俺の名前も思い出せないだろう。
それでも懲りない俺は、今も変わらず、しぶとく彼の傍にいる。
だが、ひとつだけ彼の記憶の中に、残っている人がいる。
モノと呼ばないのは、その人に関する記憶がごっそりと抜け落ちていて、たった一人の血縁、という認識しかされていないから。
彼は俺の名を、最愛の弟の名前、「幽」と呼ぶ。彼の中にはもう、折原臨也という存在が無いのだ。

「…兄さん、桜が綺麗だよ」
「…そう、だな…幽‥。あの桜が散る頃には俺はもう…」
「何言ってるの兄さん、俺のために、お願いだから、生きて」

俺はシズちゃんが混乱しないように幽の口調で彼のお世話をしている。
もうこの会話を何度繰り返したか分からない。
何度彼の口から紡がれる、「かすか」と呼ぶ声を聞いたか分からない。
そして何度、そう呼ばれる度に俺の返答する声が震えていたか数え切れない。
でも彼は忘れてしまったから。俺が昔憎しみ合った悪友だという事、そして数十年の時を経て恋人同士になった事も。

今までの事を全部あやまりたい、全部消し去りたいよ。傷つけたことも、傷つけられたことも、憎しみ合って傷つけ合ったことも。
殺したいという思いから愛したいという想いに気づくまでに何十年もかかってしまった俺自身を恨みたい。俺自身を殺してしまいたい。
最後まで素直になれなくてごめんね。この声が届くかどうかは分からないけれど。
それでも、それでも俺はまだ、この愛する彼の傍にいたい。
出来る事なら、本当に出来る事ならば、どちらかの最期まで。

「…幽…、俺は、すげぇ…幸せ、だったよ…」
「…ッ、そんなこといわないで、シズちゃん‥ッ、」
「幽…、なんかその呼び方、すげぇ懐かしい気がするよ‥」
「ごめん、ごめんね、シズちゃん‥!」

幾度となく繰り返される会話。今話されたこの会話さえ、明日のシズちゃんの記憶の中にはまったく残されない。
そんなの辛すぎる。シズちゃんも、俺だって。思わず、もうしわくちゃになってしまった自分の顔をしわくちゃの掌で覆う。
俺だってもう老い先短い。今日食べた朝ごはんだって何だったか思い出せない。
情報屋の俺としては有るまじき事だが、とっくの昔に情報屋は引退したから良しとしよう。
シズちゃんの車椅子を毎日押すのだって、さすがにそろそろしんどくなってきたんだよ。
だからまだ俺自身が呆けてない内に、お墓はシズちゃんと一緒の所がいいって、頼んできたんだからね。
俺のしぶとさは異常だよシズちゃん。来世まで付きまとってやるんだから。
シズちゃんに忘れられたって、俺は忘れてなんかやらない。忘れられるわけないだろう。
でも時々、堪らなく苦しくて、辛くて、寂しくなるから。俺が死ぬまでに、シズちゃんに叶えてもらいたいたった一つの夢があるんだ。
それさえ叶えば、俺はもう死んでもいい。だから、だからね。お願いだから、出来る事ならばもう一度だけ、もう一度だけでいい。

(おねがいシズちゃん、その綺麗な唇で、俺の名を紡いで)

end.

since*2010.05.03 水沢
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