魔法の掌午後の昼下がり、カタカタとキーボードを叩く音だけが事務所内に響いている。 現在トムさんの書類仕上がり待ちである。この書類が出来上がらなければ、次の取り立て先に足を運ぶ事が出来ない。 俺はソファーに座ったまま滑らかに動いて行くトムさんの指先だけを、じっと見ていた。 ふと綺麗だ、と思ったのだ。トムさんは自分が出来ない事を出来る。俺にはこんな小さいボタンを指先だけで叩くなんて到底無理だから。 「静雄、どした」 「あっ…いえ」 「ずっと待ってるの、疲れたべ」 「…そんなんじゃ無いっす」 「ならいいんだけどよ」 言えなかった。「綺麗ですね」なんてそんなストレートな言葉、なんだかとても恥ずかしくて口がそれを紡ごうとして止めた。 無意識に染まった赤い頬を隠すべく俯いて煙草に火を付ける。 トムさんの方へ煙が行かないようにそのまま下へ煙を吐き出すと、それに気付いたトムさんに「何遠慮してんだ」と笑われた。 別に遠慮してる訳では無いですトムさん、俺はただ、変な事を言おうとした自分が恥ずかしくって。たまらず前髪をぐしゃりと掴む。 すると、知らず知らずの内に席を立ったトムさんが近付いて来ていて、前髪を掴んでいた手をそっとどけられた。 「…トム、さん…?」 「ったくお前は何してんだ」 「え…?」 「何悩んでんだよお前は」 「別に悩んでなんか…ただ、」 「……ただ、何だ?」 綺麗ですね、と言うのか。俺は何を言おうとしているのか。トムさんが待っている。早く、早く何か言わないと。 喉の奥に言葉がつっかえて、上手く喋れない。どうしよう…綺麗だなんて言えないし、じゃあ。 俺は目の前にあったトムさんの手を掴むと、スッと自分の頬に寄せた。 「静雄?」 「…トムさんの手は魔法の手ですよね」 「魔法?んだそりゃぁ」 やはりトムさんは恥ずかしそうに笑った。自分でも馬鹿らしい事を言っているのは分かっている。 けれど言わなければいけないような気がして、つい口が動いてしまった。 頬に寄せたトムさんの手を空いた手で優しく撫ぜながら、言葉を続ける。 「だって、魔法の手じゃないっすか。キーボードだって魔法見たいにカタカタ滑らかにタイピングするし、俺イライラしてる時とかもトムさんに頭撫でられただけで気持ちが落ち着くし…なんだか吸いこまれちまうぐらい、不思議な力があるように思うんです」 「褒めすぎだべ静雄、俺の手はそんな大層な手じゃねぇって」 「俺時々思うんです…この魔法の掌に、俺自身も吸いこまれてしまえば、って…」 「…!」 そう言いながら掌に唇を寄せると、勢い良く頬に寄せていた手を弾かれた。 驚いて上を見上げると、酷く怒った形相のトムさんが俺を見下ろしている。 そして両手で荒々しくむにむにと頬を抓られた。何でトムさん怒ってるの? 「吸い込まれてしまえばなんて、言うな…切なくなる」 「そ、そんなつもりで言った訳じゃ…!」 「じゃあ何なんだよ、冗談でもこういう事、言うなよな…静雄‥」 「トムさん‥」 「俺が今一番怖いのは、お前を失う事なんだからよ」 「!…トム、さ…」 抓られていた指先を離され、そのままぎゅうっと抱き寄せられる。 寂しそうにそう告げられれば、俺はもう何も言えなくなってしまった。 でも、吸い込まれてしまえばって思っているのは本当なんです。この世から消えてしまいたいとかそういう訳では決してなくて。 俺はただ、トムさんに吸い込まれてしまって、トムさんとどろどろに溶け合いひとつになれたら、と。 そう、恥ずかしい事を思っているだけなんです。 「じゃあもう少しだけ待っててな、もうすぐ終わるから」 「はい、トムさん」 俺の頭をひと撫でして、トムさんはデスクに戻って行き書類製作の作業を再開する。 再び事務所内に響くキーボードの音。それを黙って見つめながら煙草をふかす俺。 やはりトムさんの手は魔法の掌である。トムさんが奏でているこのカタカタとした何気ない音が、酷く幸せだと思えるのだ。 仕事が終わったら頭をいっぱい撫でて欲しい。ほっぺただって擦り切れるぐらい撫ぜて欲しい。 その俺には無い、とても温かみのある優しさで溢れた掌で。 (やっぱりトムさんの手は綺麗だ、酷く切なく泣きたくなるぐらいに) end. since.2010.07.16 なか |