ルールが追加されました。
兄と妹と言ってもそれは紛い物。私たちが知り合って間もない赤の他人であることは変わらない事実。他人同士が一つ屋根の下で暮らすのだからそれなりにルールは存在する。
それは赤井さんの部屋には入らないことだったり、夕食を一緒に食べられない時は17時までには連絡をすることだったり、そして相手が風呂に入っている時には洗面所には入らないことだったり。
「面倒じゃないですか?」
「何がだ?」
まだ昴君になる前の姿の赤井さんがコーヒー片手に新聞を読んでいる。
私は中身の年齢は立派な大人だが、生まれてこの方まともに新聞全面を読んだことがない。
「洗濯物ですよ。昴君の服はクリーニングに持っていけるとしても、赤井さんの服はそうもいかないじゃないですか」
「それはそうだが」
「私が洗濯しますよ」
そう伝えた時の彼の表情はとても複雑だった。驚きと訝しみと困惑と少しの喜びと。しかし要約すればこうだ。
『やってもらうのは申し訳ない気もするが、自分で洗濯するのが面倒だったので助かる』
彼は一人暮らしが長かったので身の回りのことは一通りできる。だが、同時に海外暮らしだったので所謂日本人のマメさはない。
「いや、最近は料理も任せているからそこまで甘えるのは……」
「そんなことを言ったら私は生活費を入れることもしない居候ですけど」
「君の場合は事情が事情だから仕方ないだろう。まだ高校生だしな」
確かに今は17歳。でも学生気分はとうの昔に抜け切って、社会人の自覚から社畜の精神へと変遷していたから内心は複雑だ。
「私どうしてこんな若くなっちゃったんですかね?」
「さぁな」
「せめて働ける年齢が良かった……。そうしたらこんな迷惑かけなかったのに」
「迷惑だとは思ってないが」
「!?」
別の世界から来た外見と中身の年齢が一致していない無職の女が居候していて迷惑じゃない?
マジマジと見る私を、赤井さんは全く気にすることなくコーヒーを飲んでいる。
これはモテる。絶対にモテる。無意識に女を撃ち落としてる。さすがシルバーブレット。
「とにかく! 赤井さんには私が買いきれないほどの恩があるので実労働で返済させてください」
「丁稚奉公か」
「よく知ってますね。そんな言葉」
こうして私は推しの洗濯物を任されることになったのだった。
▲▽▲▽▲洗濯物を干して畳む。赤井さんの服と昴君の服が半々。何と言っても一番驚いたのはボトムスの丈だ。
足なっっっがい!!
もちろん足が長いのはわかっていたけど、改めて足だけの長さを浮き彫りにする物証を突きつけられて驚愕した。
そして時々ハイブランドのものが混ざっていたりするから怖い。服にこだわりはなさそうなのにと思って聞いてみたら日本の既製品だとサイズが合わないのだそうだ。なるほど。やっぱり足が長い。
「失礼しまーす」
赤井さんの服を持った私が向かうのはある部屋だ。
誰もいないので声をかけなくてもいいのだけど、何となくだ。そして赤井さんの服をベッドに置いてさっさと部屋を出る。
洗い終えた服は赤井さんの部屋のベッドの上に。リビングに置いておくわけにもいかないので相談したらアッサリ部屋に入る許可が出た。
ただしベッドの上に置いたら即退室する。部屋の中を調べて回ったりはしない。もちろん物を移動させたり触れたりするのは厳禁……などと言われてはいない。むしろ何も言われなかったことに驚いた。興味ないDMの処理みたいに「そこに置いておいてくれ」といった軽い調子だったのでかなり戸惑った。
こうして赤井さんの部屋に入ってはいけないという一つのルールが消えた。
『信用されてるんだなって』
コナン君に言われたことを思い出す。
入ってはいけないというルールがあったのは確かだが、そんなルールがなくても私は入らなかっただろう。理由は簡単だ。入る必要がないからだ。
私はモブでいたい人間だったので赤井さんを詮索する趣味はないし、私が部屋に入ることで赤井さんを煩わせるのは嫌だった。
信頼というよりも判断なのではないだろうか。赤井さんは私の日頃の言動で制約を不要だと判断した。ただそれだけだと思う。
「部屋に監視カメラもありそうだしね」
私だって命は惜しいのだ。
▲▽▲▽▲その日、赤井さんは外出せずに家で仕事をしているようだった。
私は邪魔をしても悪いと、特に声もかけずに家事をするため家の中を動き回っていた。
「たまには俺も手伝おう」
赤井さんの部屋の前を通り過ぎようとしていた私はその声に振り返り、顔を顰める。赤井さんだと思ったのに、部屋から出て来たのは昴君だった。その顔でその声と口調は混乱するからやめてほしいと言っているのだが、私の反応が面白いらしくやめる気配がない。今も楽しそうに笑っている。昴君だから微笑みはデフォルトだと思ったら大間違いだ。この笑みは私をからかって面白がっている笑みだ。
「それじゃあこの後お昼ご飯を作るので手伝ってください」
私がそう告げると、なぜか不服そうな言葉が返って来る。
「今君が持っているものがまだだろう」
スナイパーの指差した先は洗濯籠。確かにまだ干していない洗濯物が積み重なっている。
「大丈夫ですよ。すぐ終わるので」
「まさか俺が洗濯物を干せないと思っているのか?」
何でそこで拗ねるのかがわからない。
持ち手を奪おうとする昴君から素早く身を翻した私は籠を抱える。
「そんなこと思ってないですよ! これは手伝ってもらわなくていいんです! それよりもお昼ご飯を手伝ってください」
「俺はお世辞にも料理が得意とは言えない。俺がその洗濯物を畳んでいるうちに料理をすればいい」
正論! 効率化!
でもこの洗濯物を渡すわけにはいかない私は必死に食い下がる。
「じゃあこれは後回しにします。昴君、掃除してください」
「さきほど掃除機の音がしたが?」
「有能なFBIめ!」
「そんなに抵抗するなら理由を教えてくれ」
紳士の国出身の男は、抵抗する私から無理やり籠を取り上げることはしなかった。だが無慈悲に異議申し立てを要求した。
絶対に引き下がる気がない。
「…………下着が入ってます」
蚊の鳴くような声に、昴君がピタリと止まる。
「君の?」
「私の」
俯いて黙ってしまった私の頭上からクスリと小さく笑う声が聞こえた。
「それは失礼した。だが、それならそうと最初に説明をしてほしいな」
「私にだってなけなしの羞恥心はあるんです」
「君の部屋に運べばいいのか?」
荷物持ちをするつもりで私から籠を取った昴君を静かに見上げる。
「……知ってるんですね。私が自分の部屋に干してること」
私はこれまで彼の部屋に無断で入ったことがない。だが彼は私の使っている部屋に入るだろう。
異世界からやって来たと言うどう考えても怪しい人物である私を、問答無用で信じることなど彼はしない。私が怪しい動きをしていないか部屋を調べ見ることもあったはずだ。
だから私が自分の下着を自室に干しているのを目にしたこともあるだろうとは思っていた。
「悪かった。今はもう勝手に入ったりはしていない」
両手を上げて白状する彼を責めるつもりはない。
「別にいいですよ。居候の身ですから。昴君にとって私の下着なんてただの布なんでしょうし。ショップのマネキンの方がセクシーに見えるかも」
「おい……。俺はそこまで無神経じゃないぞ」
廊下を進み始めた私の後ろから苦い顔の昴君がついて来る。
「これからは君に頼まれたもの以外の洗濯物には手を触れないことにする」
一つ消えたルールがまた一つ増える。
たぶんこの先もルールがなくなることはないのだろう。
でもそれは決して窮屈なことではない。
私と昴君がこれからも一緒に過ごしていく道の舗装みたいなものだ。必要な場所を固めていけば道は歩きやすくなる。
それに、昴君と私だけの約束事だと思うと少しだけくすぐったい気持ちになったりもする。
「昴君の顔の時は昴君の声と口調にするルール作りません?」
「それなら君も俺に敬語はなしにするルールも追加しよう」
「え〜それは無理ですよ」
「じゃあ却下だ。俺だけに課すルールばかりでは不公平だからな」
「50・50じゃない?」
私が問うと、昴君の細い目の奥から綺麗な緑色が現れた。そしてじっと私を見つめると綺麗な弧を描いた。