赤点は免れました。
「27歳って本当なの?」
眼鏡の少年の冷めた目線。痛い。泣いていい?
「あ、その公式間違ってるよ」
自分が書いた文字列を見直してもどこが間違っているのかわからない。
ダイニングテーブルに広げられた教科書とノート。ノートはすでに何度も書いては消してを繰り返した跡がある。
「……手、止まってる」
止まりもする。
実に10年ぶりに触れた数学U。ハッキリ言おう。これは暗号の書だ。解いたら秘宝が手に入るかもしれない。
というか10年前の自分はどうしていたのだろうか。数学Tで11点を取って以降の数学の記憶がない。
「わからないならわからないって言おうぜ」
「わかりません!!」
溜め息が聞こえたのは気のせいに違いない。
ダイニングテーブルを挟んで真向かいに座っているのは、見た目は子供、頭脳は大人の名探偵・江戸川コナン君だ。
私はこのランドセルを背負って小学校に通っている少年に高校数学を教わっている。
プライド?そんなものはない。さっきも言ったがこれは暗号だ。暗号なら探偵に解いてもらうのはセオリー。道理だ。何もおかしいことじゃない。
「名前さん」
「何?」
「数Tからやり直したら?」
「マジか」
▲▽▲▽▲コナン君には私がこの世界に来て数日後に昴君によって引き合わされた。
沖矢昴の妹を名乗って工藤邸に住むのだから、そりゃあ説明が必要だよね。
最初は胡散臭そうに私を見ていたコナン君だったが、やることは赤井さんの時と同じだ。
赤井さんに席を外してもらうと、
工藤新一がアポトキシンによって小さくなったのがコナン君であること。
アポトキシンは黒組織のジン・ウォッカによって飲まされたこと。
沖矢昴の正体がFBI捜査官の赤井秀一であること。
などなど機密情報を披露した。そしてコナン君が私に対する警戒をMAXに引き上げたところで耳元に近づく。
「ニューヨーク行きの飛行機で事件にあったよね」
「蘭ちゃんと米花水族館でデートしたでしょう」
「保育園の時さくら組だったの知ってるよ!」
「あ、そういえばコナン君になってから蘭ちゃんとお風呂に入っ……」
これでターンエンドだ。
▲▽▲▽▲聞き間違えようがない溜め息の数と叱責を受けながらもテスト範囲の基本中の基本を叩きこまれた私は机に突っ伏した。
「もう無理。数式が口から出そう」
「出たらもう1回飲み込んでくれよな」
もう一度同じことを教えるのはごめんだとコナン君は背もたれにグッタリと仰け反った。
「でも何でわざわざオレなんだ?蘭や園子に教わればいいだろ?」
コナン君は今小学校に通っている。だから新一君は高校の授業を受けていないわけだ。授業を受けているはずの私が彼に勉強を教えてもらうのはかなり矛盾している。
しかし蘭ちゃんや園子ちゃんに教わるのはリスクがある。「前の学校で教わらなかったのか」「どこの単元までやったのか」なんて聞かれたらどう答えればいいのか。さらにそれが他の教科の内容まで飛び火したら?
だから私の事情を知っている人に教わることにしたのだ。そう説明すれば「一応気を遣ってるんだな」なんて失礼な感想が返ってきた。
「昴さんもいるだろ?」
「いや無理でしょ。あの顔が目の前にあるとか無理無理!」
「あっそ」
昴君と顔を突き合わせて勉強を教えてもらうとか想像しただけで頭が沸騰する。数式どころではない。
どこかに飛んでいってしまうのではないかという程に首を振る私に、コナン君は呆れ顔だ。実は私が元いた世界では赤井さん推しだったということは伝えてある。
コナン君は私が別の世界から来た人間だと信じてくれたものの、秘密をばらさない保証はないと人間不信になりそうなことを言ったのだ。だから私が不利益になることなどするはずがないと力説してやった。赤井さんの好きなところを挙げ連ねて。あの時も今のような疲労と呆れの混ざった表情をしていた。
「そう言えば今日昴さんは?」
コナン君がキョロキョロと周囲を見回した。
私は今朝の会話を思い出す。確か博士にチョーカーのメンテナンスをしてもらうと言っていたのでそのままを伝える。
「もう灰原も帰っただろうし、メンテはもう終わってんだろ」
「だよね。だからそのままどこかに出掛けたんじゃないかなぁ」
教科書やノートを閉じながら何の気なしに返答する。
遅くなるとは聞いていないので夕食は家で食べるつもりだろう。
(何を作ろうか)
私たちは基本的に食卓を共にするようになっていた。お互いに予定ができた時にはなるべく早く共有する。私が夕食を作れなければ、昴君はデリバリーしたり外で済ませたりしているようだ。逆に昴君が不在の日、私は適当に残り物で済ませる。ルールを作ったわけではないが私たちの間で暗黙の了解のようになっていた。
「ん?何?」
献立を考える私をコナン君が頬杖をついてガン見していた。さっきまでの呆れは消え、どことなく優しさを感じる顔だ。
しかし何を考えているかはサッパリだ。怪訝に思う私にコナン君が告げたのは予想外の一言だった。
「信用されてるんだなって」
パチパチと瞬きをする私がいまいちピンときていないことを察した名探偵は白い歯を見せた。そして小さな手で私を指差した。
「今日みたいに平気で留守にするってことは、名前さん一人で家にいられても大丈夫ってことだろう?」
思えば、最初の数週間は必ず昴君が家にいた。私はそれを元々あまり外へは出ない生活習慣なのだろうと考えていた。だが違った。昴君は週の半分はいないし、長時間帰って来ないこともある。そのことに気づいたのはいつだったか。気づくことができたのは……。
その時玄関の扉が開く音が響いた。
「おや。ボウヤ」
「昴さん、こんにちは!」
「名前はどうしたんだ?」
顔を覆って俯いている私を昴君が不思議に思うのは当然だ。だが待って欲しい。今、昴君の顔をまともに見られる気がしない。いや、いつだって昴君を見る時はまともでいられていないかもしれないけど。
動かない私をよそに「大丈夫だから気にしないでいいよ」とコナン君がひらひらと手を振った。
「夕飯の支度はまだだろう?最近テスト勉強で根を詰めているようだったから寿司を買ってきた」
「やった!!昴君最高!!」
「あ、復活した」
「ボウヤもどうだ?」
「え?いいの?」
「ああ。妹が世話になったようだし」
昴君の視線がテーブルの上に向けられる。そこには鞄にしまわれないまま残っていた数学U。普通ならただ私がテスト勉強をしていたようにしか見えない……はずだ。高校生が小学生に教えを乞うとは思わない……はずだ。
昴君を見上げれば、あるのはいつも通りの穏やかな笑顔。
「お茶淹れましょうか」
「ああ、頼むよ」
私はわきまえている。相手はFBI捜査官。本音を覗こうなんて分不相応だ。
彼は物語の中心。私はモブ。必要以上に踏み込まない。
そう決めていたけれど、どうやら彼は私のことを信用してくれているらしい。
「忘れてた。昴君」
私はキッチンへと向かおうとして足を止める。振り返った先の昴君は無言で私の続きを待っていた。
「おかりなさい!」
笑って告げれば、驚いたように見開かれたグリーンの瞳。そして次の瞬間には再びそれが細められた。
「ただいま」
向けられた柔らかな微笑み。
気のせいかもしれない。自惚れかもしれない。
でもほんの少しだけ赤井秀一の本音が見えた気がした。