Episode5. 10
応接室から出て来た男は最近取引の多いベンチャー企業の社長だ。まだ40代だがここ数年の業績には目を見張るものがある。社長本人はジムで鍛えているようで身体は引き締まっており、顔立ちもいい部類だろう。30代前半にも見える。女性からのアプローチも多いはずだが、この会社を訪れる度に待田ケイに声を掛けてくる。
彼の会社と密に取引をしている立場から無下にすることはできない。だが彼からの下心しかない誘いに乗ることはできない。個人的な連絡先を教えず、誘いを躱す。そのための話術は待田ケイの得意とするところだ。
「それでは今後も宜しくお願いします」
「ああ、宜しくな。待田さん」
上機嫌で歩いていく男を笑顔で見送ると、奥の部屋から別の男が顔を出す。
「彼もしつこいなぁ。何度も君に断られていると言うのに」
今立ち去った彼と比較すると、こちらは薄い髪にウエストのなくなった大きな腹の中年男性だ。だがスーツは上等なものであるし、背筋は伸びていて貫禄があるといった表現がよく似合う。待田ケイの上司だ。
「女性に断られることに慣れていないのでしょう。そのうち飽きますよ」
「待田くんは下手をせずにあしらってくれるから助かるよ。彼が手を付けたうちの秘書が多くてね」
それでも取引を止めないところを見ると、やはり仕事では有能なのだろう。実際、今日彼が持ってきた取引もなかなか好条件だった。おそらく取引は成立するだろう。
「それよりも常務。今夜の予定が開いていますが、そのままご帰宅されますか?」
「本当に君は優秀だな」
待田ケイはにっこりと笑う。先程の若い男に向けたものよりもほんの少し含みを持たせた笑いだ。
「ホテルのディナーを予約してある。君の好きそうなワインを用意した」
「それは楽しみですね」
下心しかない誘いは選んで受けることが重要だ。上司が再び奥の部屋に入って行くまで待田ケイは笑顔を崩さなかった。
□ □ □「男ってどうしてこんなにすぐコロッと落ちるのかしら!単純すぎない!?」
「……それを僕に言うか?」
すでに夜中の0時を回った警備企画課の部屋で、名前はキーボードを叩きながら腹を立てていた。
「それで肝心のディナーはどうだったんた?」
「肉が口で溶けたわ。ワインも美味しかった」
「そりゃよかったな。苗字、この資料の添付抜けてるぞ」
「今作ってるのよ!」
余計なディナーなど行くくらいならこちらの仕事に時間を回したいのが本音だ。最後の一文を入力し終えると、エンターキーを押す。隣の降谷はじっと一連の動作を見ていたが、諦めたように頬杖をついた。
「僕を嫉妬させようとしてディナーの話をしたわけじゃないんだよな?」
「仕事の愚痴に聞こえなかった?」
「仕事の愚痴にしか聞こえなかったな」
名前から送られた添付ファイルを確認すると、降谷はパソコンを閉じた。
「腹減らないか?」
仕事に夢中で忘れていたが、名前は昼も食べていなかった。朝からずっと横の席に居続ける降谷もまた同じだろう。
返事を待たずに降谷は立ち上がり、名前のパソコンを問答無用でシャットダウンしてしまった。
「帰るぞ」
空腹を自覚してしまった以上、仕事を続けるのは非効率だ。素早く帰り支度をして降谷と共に駐車場へ向かう。白いRX-7は暗い駐車場でもよく目立つ。降谷が助手席の扉を開けたので素直に従って乗り込んだ。
「一応聞くけど、どこに帰るの?」
「この車に乗っておいてそれを言うのか?名前が今日自分の車で登庁してきたことなんてわかってるぞ」
ぐうの音も出ない名前をチラリとだけ見て、降谷はエンジンを掛ける。派手な音を立ててRX-7が発車した。
「豪華な夜食を作ってやるよ。ホテルのディナーよりも美味いやつをな」
手料理で高級ホテルのディナーに対抗して勝つつもりなのか。……降谷なら勝てるかもしれない。もしかして名前が別の男とディナーに行ったことを嫉妬しているのだろうか。
色々な考えが浮かぶが、どれも名前の都合のことばかりに思えて返答を躊躇ってしまう。
「まさか部屋を散らかしたのか?」
「違っ…!」
「それも確かめないとな」
名前の沈黙を別の意味だと捉えたらしい。慌てて否定するが逆効果になってしまった。仕方なく一呼吸おいて名前はポツリと呟いた。
「あんな風に言われて散らかすと思う?」
誰も待っていない家に怯えながら帰る。そんな日々を過ごしたこともあった。しかしもう名前はゼロだ。逃げる立場ではなく追う立場だ。誰かが侵入したのであればむしろチャンスだ。そこから足取りを終えるかもしれない。
それに、誰かの痕跡など気にするだけ無駄だ。名前の部屋は降谷がいいように使っているのだから。
名前はもう独りではない。
「散らかしたらまた僕が片付けてやるよ」
「だからもう散らかさないって。……洗濯物は溜まってるけど」
「じゃあ洗濯もしてやる。恥ずかしがっても今更だからな」
過去何度も下着まで洗濯されているのだが、むしろ降谷は恥ずかしくないのだろうか。そう考えてあることに思い至る。名前は任務上、先日のように男とディナーに行くこともある。それでも名前の肌に直に触れるものに自分が手を掛ける。これは降谷のマーキングの一種ではないだろうか。むしろ名前を構成する全てに自身の手を加えたいのかもしれない。
先ほどよりも余程名前の都合のいい解釈だが、なぜか間違いないと確信できた。涼しい顔で運転している降谷の欲望には底がないらしい。
「片付けをしてくれて洗濯もしてくれる。その上豪華な食事つき」
「今から覚悟しておいてくれ。掃除も洗濯も料理も、名前のやることなんてないからな?」
「じゃあ私は何をすればいいのよ」
RX-7が道路の脇に寄って行く。深夜の住宅地だ。停止してエンジンを止めればあるのは静寂だけになる。降谷の「名前」という声が小さくてもよく響いた。
「生きていてくれればいいんだ」
顔を上げて名前を見つめる青い瞳は、優しい中にほんの少しの悲しみと強い意思が込められていた。
「僕の隣で怒って泣いて笑って、生きていてくれ」
名前の手を取った降谷が唇を落とす。左から2番目の指にそっと優しく触れた。
彼は何度も失ってきた。それでも崩れずに歩き続けて、今も名前の隣にいてくれる。そして何よりも大きな意味を持つ願いを、名前に託してくれる。
頬を伝う一筋の涙を降谷の指が受け止めた。
「やっぱり綺麗だな」
彼の前で初めて泣いた時と同じ感想を口にする。
「僕は名前に名前を贈る。名前は僕と生きる。この先もずっと」
あの日、降谷は名前を贈ると言ってくれた。それは同時に偽りとして失いそうになった過去も救ってくれた。名前の過去も未来もそして現在も、降谷がいるから存在する。
自分は与えられるばかりではないだろうか。独りで考え込む夜もあった。でも降谷はずっと欲しいものを伝えてくれていたのだ。
「私は私の未来を零に贈るわ。ずっと零と生きていく」
流れ落ちていく涙を掬っていた大きな左手を、名前が両手で包み込む。降谷がしてくれたのと同じように唇を指へ寄せれば、褐色の手から緊張が伝わって来た。
「最高の贈り物だな」
降谷がキスされた手を顔の前に掲げる。何もはめられてないはずのそこを、眩しそうに目を細めて笑った。