Episode5. 06
警備企画課のデスクで背伸びをする。溜まっていた決済待ちの書類は一通り片付けた。次は部下から上がっている報告に目を通し、それが終わったら経費の申請をして……そこまで考えて名前は立ち上がる。潜入先の会社は有休を取った。しかしだからと言って家でゆっくりと休めるわけではない。コーヒーを飲んで休憩にしようと廊下に出たところで、見覚えのある背中が前を歩いていた。
「風見さん!どうしたんですか?」
名前の声に風見が振り返る。彼が警察庁に顔を出すのは珍しい。名前が追いつくのまで待って、隣に並んだところで口を開く。
「降谷さんから呼ばれまして……」
「ああ。なるほど」
「ですが時間になってもいらっしゃらなかったのでどうしたものかと」
「あー……もう少し時間かかるかもしれないですよ」
今日は朝から降谷も登庁している。昨夜の作戦が失敗したことで偉い人たちから小言の嵐を受けるためだ。しかも運が悪いことに降谷と相性の悪い人間が居合わせており、当初の目算よりも時間が押しているようだった。
「風見さんも一緒にコーヒーどうです?」
「あの、苗字さん……」
言いにくそうに切り出した風見に合わせて名前も足を止めた。
「昨夜、赤井秀一は来葉峠で発砲しました。予定にない発砲です。ですが我々が裏工作をしようとした時にはすでに処理は終わっていました。苗字さん、あなたの仕業ですよね?」
「余計なことをしましたか?」
「いいえ。事前に処理をしていただいたのでむしろスムーズに進みました」
「それなら良かったです」
名前は発砲があることを知っていた。それが何を意味することか風見にわからないはずはない。だが風見はそれ以上に言及することはなかった。
「怒ってもいいんですよ?」
「降谷さんからあなたが作戦に反対していることは聞いていましたから」
「でももっと腹を立ててもいいと思います」
「上司である降谷さんがそうしていないのに我々が腹を立てる必要はないでしょう」
自分の感情を収める術を心得ている。さすが降谷の信頼する部下だ。
自動販売機のある方へ再び歩き始めると風見も自然とついて来た。風見の好みは甘いコーヒーだったなと考えてボタンを押そうとしたところで、背後から思わぬ言葉が投げかけられた。
「むしろ感謝すべきではないかと思っています」
ガコンと缶が落ちる音が響く。
しかし名前がそれを取り上げることはなく、振り向いた先の風見を確認すれば真剣な瞳が名前を見つめていた。
「我々は当初の作戦こそ失敗しましたが、結果だけを見れば決して損をしたわけではありません。赤井秀一生存の確証に至り、FBIがそれを認知した瞬間に立ち会いました。手掛かりになるかもしれない拳銃も手に入れることができました。その上発砲にまつわる事前処理をしてくださっていたので、本来裏に手を回さねばならないところを免れています」
しゃがみ込んで缶コーヒーを取り出す。軽く会釈をしてそれを受け取った風見は開けずにそのまま両手で包み込んだ。
「全て我々の計画外の出来事です。あなたがいなければ恐らく全て手に入らなったでしょう。だから我々は感謝する必要があるのではないか、と」
「必要ないですよ」
いくら綺麗ごとを並べたところで公安の作戦を破綻させた原因の一端が名前であることは変わらない。恨まれこそすれ、感謝されるのはお門違いだ。
「それでも、ありがとうございます」
風見は綺麗に上体を折る。お辞儀のお手本のようだった。
複雑な心境ではあった。でも実直な風見の気持ちは素直に嬉しい。
「顔を上げてください。私だっていつも風見さんには感謝しているんですよ。あんな面倒な上司とそのバディについてきてくれて…」
「あのっ!」
風見が上官の言葉を遮る。滅多にないことだ。
「これは職務ではないのですが……」
「はい」
「お2人はご結婚されないんですか?」
「は!?」
あまりに突飛な質問に上ずった変な声が出た。風見から「結婚」という言葉が出たのもそうだが、これまで2人の関係に一切口出しをしてこなかった彼がなぜこんなことを聞いてきたのか。答える前に考えることが多すぎる。
「風見。女性に結婚の話はセクハラで訴えられるぞ」
風見を揃って声の方を向けば、休憩所の入り口に降谷が寄り掛かってこちらを見ていた。声に覇気がないのは気のせいではないだろう。
「降谷さん!お疲れ様です」
「呼び出しておいて待たせて悪かった」
長い脚は数歩で自動販売機に到達する。どれにしようか腕を組んで悩む降谷の隣に並んで顔を見上げる。
「きっちりお灸を据えられたみたいね」
「ああ。同じ話を何回も聞かされたよ」
降谷は渋面を作る。あの上官ではそうだろう。降谷を目の敵にして事あるごとに難癖をつけるのだが本人の中身は薄い。これほど長い時間実のある話をできるほど頭の回る人間でもない。
「降谷さんすみません。我々が奴を確保できていればこんなことには…」
「気にするな。上に小言を言われるのは僕の仕事だ。それに作戦が失敗したのは君たちのせいじゃない」
風見たちのせいではなく名前のせいだ。降谷は言外にそれを含ませている。上官から散々言われた後だ。嫌味の1つくらい甘んじて受け入れよう。
「風見さん。さっきの話ですけど、どうしてそんな話になるんですか?私と降谷は付き合ってもいないですけど」
「関係性の呼称がどうあれ、お2人はお互いを大事に想っていますよね」
「バディですから」
「ですが、その……降谷さんは……」
「風見」
降谷の低い声に風見が肩をビクッと揺らした。どうやら彼ら2人の間で何かあったようだが、降谷が名前のことで口を滑らせるとは。風見もなかなか侮れない。
風見は眉を下げながらもポツリと呟いた。
「お2人には幸せになって欲しいんです……」
何があったのかは置いておくとしても、降谷と名前の関係で気を揉ませているのは確かだ。これだけ2人の近くにいる風見だ。思うところもあるのだろう。だが、いくら降谷が大きな信頼を寄せているとは言え、名前たちの事情を包み隠さず言うこともできない。
「風見さん、今どき幸せ=結婚だなんて価値観は古いですよ!」
「そういう意味じゃありません。お2人にはずっと一緒にいて欲しいという意味です」
「それなら僕らはずっと一緒にいるから問題ないな」
缶が落ちる鈍い音がして、降谷が缶コーヒーを取り出した。
サラリと言われたが、何かとても恥ずかしいことを言われた気がする。
平然としている降谷は腕時計で時刻を確認している。
「風見。予定より遅れてしまったが打ち合わせするぞ」
「はい!」
足音のしない降谷を、風見がバタバタと慌てた様子で追いかける。
休憩所に一人残された名前は自分の分のコーヒーを買っていないことに気づいた。改めて自動販売機の前に立ち、ボタンを押そうとした時だった。
「苗字」
振り向くと再び降谷が入り口に立っていた。
目の前まで近づくとズイッと何かを持った片手を突き出してくる。反射的に両手を器の形にすると、熱を帯びたものが入れられた。見れば、先ほど降谷が買った缶コーヒーだった。
「頑張るのもほどほどにな」
一度だけ頭をポンと軽く叩くと、速足で出て行った。
気配が完全になくなってから名前は缶のプルタップを開け、温くなった中身を一気に喉へ流し込む。
「甘すぎるわね」
微糖と書かれた缶をゴミ箱に放り込むと、名前はデスクへと戻って行った。