Episode5. 02
この家の主である工藤優作は悠然と部屋に入って来た。名前は思わず腰を浮かせる。
「どうしてここへ……」
最近のニュースは彼の脚本がマカデミー賞の最優秀脚本賞にノミネートされたことで持ち切りだ。そして今日はその授賞式。彼が日本にいるはずがない。
「コナン君に頼まれたことがありまして、急遽帰国したんですよ。あなたが待田ケイさん……いや、苗字名前さんと言った方がいいのかな」
温和で人当たりがよさそうに見えて飄々と内面を読ませない。名前が工藤優作に対して持った印象だ。
「ここまでの話は空港からの道中で全て聞かせてもらいました」
優作が名前にわかるように持ち上げたのは携帯電話だった。通話中になっている。ちらりと横を見るとヘラッとコナンが笑った。最初から筒抜けだったということか。
「初めまして。“待田ケイ”です。あなたの作品は全て読ませていただいています」
「それは光栄だ」
「初対面なのに早速で申し訳ないのですが、証拠と仰いましたか?」
「はい。おそらくあなたも知らない証拠です」
優作の口振りは落ち着いていて名前を揺さぶっているわけではなさそうだった。
しかし名前は誰よりも知っていた。あの冬の日に、苗字名前はいなくなった。証拠などない。現役で難関大学へ合格しても、学部生で司法試験に合格しても、名前は自分が自分であることの証明ができないのだ。
「証拠をお渡しする前に、1つ昔話をしても宜しいですか」
優作の柔らかい声に名前は頷いた。ここは彼の家で名前は客だ。拒否する理由はない。
「もう20年近く前になります。当時まだ駆け出しの作家だった私は、警察に乞われて事件解決のアドバイスをすることがありました。それをどこからか聞いた1人の男が私の元を訪れるようになったのです。探偵の真似事をしていると言ったその男は気まぐれに来ては毎回たわいもない話ばかり……。ですが、彼は私から何らかの情報やヒントを引き出しているようでした。巧みな話術に隙のない所作。探偵よりもスパイの方が似合っていると言ったら彼は笑っていました」
優作は話しながら応接室を出て書斎へ向かった。名前は黙って彼の背中を追い、コナンと沖矢もそれに続いた。
「数年後、私に息子が生まれると彼は祝いに来てくれましたが、その日を最後に二度と現れなくなりました」
工藤邸の書斎はさながら図書館のようだった。天井まで埋め尽くすように並べられた蔵書が部屋をぐるりと囲っている。圧倒される本の中から優作は迷わず1冊を取り出した。
「最後に彼と会った日に渡されたものです」
差し出されたのは厚みのある洋書だった。普通の家なら目立つだろうが、この部屋の中では珍しくもない。特に変わったところがあるようには見えないがパラパラとページを流していくと、途中に何かが挟まれていた。
「彼はこれを私に預かって欲しいと頼みました。いつか必要として取りに来る人間がいたら渡してくれと」
挟まれていたのは古い写真だった。
「苗字名前さん。あなたが欲しかったものはこれですね」
桜が満開を少し過ぎて枝には緑の葉が混ざり始めていた。
小学校の校門を背に並んで立つ母と娘。
大きなコサージュをつけたスーツで穏やかに微笑む母親。
その隣では黒髪の娘がどこか緊張した面持ちで大きなランドセルを背負っている。
6歳の名前がそこにいた。
「この女の子がケイさん?すごく可愛いけど今と随分印象が違うね」
名前の手元を見たコナンが驚いたように名前…待田ケイと写真の中の少女を比べている。待田ケイの容姿がメイクで作り上げられていることをコナンは知らない。まさか名前だけでなく見た目まで名前にあわせて変えているとは思うまい。だからこの黒髪の少女が名前だとはにわかに信じられない様子だ。
そこへ興味が沸いたのか沖矢も写真を覗き込んできた。
「本当ですね。年齢を重ねたことを抜きしてもこの少女とはだいぶ違う。むしろ……」
「お母さんとそっくりだ!」
コナンが写真の中の母を指した。今の名前よりももう少し年齢を重ねた母がそこにいた。
初めて待田ケイのメイクをした日、母はとても驚いていた。それはそうだろう。メイクをした娘は若い頃の自分に瓜二つだったのだから。
待田ケイに父親はいない。だから父親似の自分を変えたかった。母親に似せることは自然な流れだった。だから母もそれ以上は何も言わなかった。
「彼はこの写真が宝物だと言っていましたよ。大切な娘がいるのだと眩しそうに笑っていました」
あの冬の日に写真は全て処分した。過去にいた場所がわかるものは持っていくことができなかったから。だから名前は中学入学以降の待田ケイの写真しか持っていない。
苗字名前の記録は消された。
苗字名前の思い出も失くした。
もう何一つ残っていないはずだった。
父はこうなることがわかっていたのだろうか。自分が組織に殺されるだろうこと。その後妻子が名前を奪われ、別人としての人生を与えられること。
そして名前が再び苗字名前の存在を求めることを。
「お預かりしたものを私はお返しできたかな」
「はい……!ありがとうございます」
両手でギュッと写真を胸に抱いて名前は深く頭を下げた。ゆっくりと顔を上げると優作は微笑みながらも、どこかこちらを探っているようだった。
「……何か?」
「いいえ。コナン君からあなたは証拠にこだわっていると聞いたものですから」
「泣くと思いましたか?」
揶揄う口調で尋ねると、優作とコナンが顔を見合わせる。それはそうだろう。あれほど証拠を求めていたのだ。
「そうですね……。自分でも意外でした」
こみあげるものがなかったわけではない。
過去も名前も全て失った。母を亡くし、思い出を語り合う人間もいない。
だが名前は覚えている。
風で舞う桜の花びらも、繋いだ母の手の温もりも、仕事で来られない父が悔しそうにしていたことも、その代わり入学式で着る服を一緒に買いに行ったことも。
写真の中には名前の記憶でしかなかったそれらが写されていた。確かに存在していたのだと証明してくれた。
「もっと自分を大きく変えるものだと思っていました。でも、ただただ純粋に懐かしい……」
正直にそう告げれば、優作は少し考えてから口を開く。
「そうであれば、この写真はあなたにとって存在証明でなく思い出の品ということなのでしょうね」
「……どういう意味ですか?」
「その人がその人足り得る証は物だけではない。気づかないうちにあなたはもう証拠を持っているのではないですか?」
「私が私である証拠……」
呟きながらあることに思い至る。
(そうだ。あれは……)
数年前の出来事が蘇る。なぜあの時だったのか疑問を持たなかったわけではない。しかしもう名前は後ろを振り返ることをしなくなっていた。重要なことは全て先に見えていたから。だからこの瞬間まで気づかなかった。
(そうだ。私はすでに持っていた)
もう一度写真に目を落とす。
(懐かしい)
しかし帰りたいとは思わない。写真の中にあるのは過去だ。名前が生きたい場所ではない。
「ケイさん、証拠は渡したよ。ボクたちに協力してくれるよね?」
見上げてくるコナンに名前は不敵に笑う。その顔つきは彼と全く違うにもかかわらず、優作は古い友人の面影を見た。