Episode5. 01
工藤邸の豪華な応接室。名前は沖矢の緑色の瞳に縫い留められていた。コナンは名前の僅かな変化も見逃すまいと凝視している。
「あなたは確かに待田ケイだ。しかしもう1つ、公安警察によって過去に屠られた名前があるのではないですか?そしてその名前こそが苗字名前。違いますか?」
沖矢の静かな問い掛けに、名前は肯定も否定もしなかった。先程まで激しく脈打っていた心臓は、すでに元のリズムを取り戻している。一呼吸おけば口元に笑みを浮かべることすらできた。
「ホォー。なかなか手強いお嬢さんだ」
「お嬢さんって歳でもないけどね。あと口調が崩れてるわよ、昴君」
「おっと。これは失礼しました」
それはどちらに対しての謝罪なのかと睨むが、すでに双眸を細めた彼からは読み取ることができなかった。
その大人げないやり取りを黙っていたコナンが「ゴホン」と咳払いをすると、名前と沖矢が揃って背筋を伸ばした。
「たぶんケイさん……名前さんは大きな事件に巻き込まれて公安警察の保護を受けた。そして待田ケイになった。経歴が完璧なはずだよ。だって本当の経歴なんだから」
そうだ。待田ケイの経歴は嘘ではない。苗字名前と待田ケイの間で自分を見失いそうになったのは何年前だったか。随分遠い昔のことのようだ。
「待田ケイとして生きていた名前さんは警察庁へ入った。ただし待田ケイではなく苗字名前として、それも待田ケイの戸籍を残したままでね。どう工作したのかはわからないけど、警察の上層部に協力してくれる人がいるんじゃないかな。だから実在しないはずの苗字名前が公安警察に所属しているという不可思議な事実ができあがった」
そこまで言うと、コナンの力強かった瞳に影が差す。
「ケイさんの偽名を見抜く能力は公安の仕事で得たものじゃなくて、これまでの人生で培ったものだったんだね」
ある日自宅でテレビを見ていると新人アイドルが自己紹介をした時に耳障りがした。緊張しているせいなのか、随分とぎこちない話し方をするものだと呆れた。しかし数日後、別の俳優が挨拶をした時にも同じように胸がザラザラする感覚を抱いた。それを何度か重ねていくうちにパターンが見えてきた。原因は彼らの『名前』にあった。名前が違和感を持った人間は総じて芸名やペンネームを名乗っていた。本名ではない名前――名前は偽名に反応するようになっていたのだ。
「大袈裟ね。ただの勘よ」
名前が明るく言うが、コナンの表情は硬いままだ。
欲したのではなく不可抗力で得たもの。それならば勘で十分だ。だから名前はこの能力のことを課長にも管理官にも伝えていない。あの元局長にもだ。本当ならずっと自分の胸の内にしまっておくはずだった。
『水無怜奈って偽名だものね』
あれは失言だった。偽名がわかると告げた時のあの複雑そうな顔。あんな顔をさせたいわけではなかった。どうしても彼の前では気が緩む。公安警察が聞いて呆れる。しかし彼には遅かれ早かれ知られただろう。彼は名前を暴く。どんな小さな変化も見逃さず、離さない。むしろ名前自身がそれを望んでいるのだから始末に悪い。
(まぁ今すぐ知られちゃ困ることもあるけどね)
コナンや沖矢、哀のことをまだ知られるわけにはいかない。彼らがそれを拒否している。
そもそも名前は正規の捜査で彼らに関わっているわけではない。名前は自身の特殊な立ち位置から少し多くのことを知っていたので、その事実を都合がいいように継ぎ接(は)ぎしたに過ぎない。唯一の物証である指紋のデータは削除してしまった。あくまで部外者でいるつもりだった。
だから待田ケイが偽名だと思わせるトラップを仕掛け時間稼ぎをした。しかし彼らは『ゼロ』という小さな欠片の手掛かりからここまで辿り着いた。さすが高校生探偵とFBIきっての捜査官だ。だが……。
「聞かせてもらった推理は見事だと思うわ。でも私を表舞台に引き出したいのなら不十分ね。大切な物が抜けているのは気付いているわよね?」
「証拠、だよね」
「そう。私が苗字名前だという証拠はあるのかしら?」
愚問だと心の中で自嘲した。証拠などない。自分が苗字名前だったという事実は全て消し去られてしまったのだ。だから名前はゼロに入った。失った苗字名前の名前を取り戻すために。
「証拠はないのよ」
自分に言い聞かせるように呟いて、名前はこの推理ショーに幕を下ろそうとした。だがその瞬間、玄関で扉の開く音がした。ここは工藤邸だ。チャイムを鳴らさずに入ってくる人間は限られている。振り返った名前はまさかと目を見開いた。
「証拠ならありますよ」
朗々と唄うように響いた声の主は、口髭を蓄えた背の高い男だった。
名前も知っている。かの有名な推理小説家・工藤優作だった。