Episode0.7310. 10
逃亡者の追跡は探り屋の仕事の1つだ。組織を裏切って逃げたシェリーの足取りはまだ掴めていない。その中で浮上したのが毛利小五郎の存在だった。一度は組織から疑いの色を濃くされたものの、白だと判断された彼のことをバーボンは調べ続けていた。
キールの1件もある。だがもう1つ。バーボン…降谷にとって見過ごすことのできない状況にあったのだ。
それは毛利小五郎を関している時に起こった。
「あそこに座っているのは……」
毛利小五郎は事務所下にある喫茶ポアロによく出入りしていた。その店内に見覚えのある顔がある。
茶色の長い巻き髪に赤い唇。スカートから伸びる細く長い脚。
(苗字……いや、待田ケイがなぜここにいる?)
驚愕と困惑が同時に湧き上がった。すぐに問い質しに行きたい気持ちを抑えて、その日はバーボンの任務に戻った。
張り込みを続けているうちに彼女がかなりの頻度で来店していることがわかった。店のウエイトレスとも談笑している。待田ケイはポアロの常連と言えた。
彼女の潜入先はここからそう遠くはない。だが何の理由もなしに来るほど近くはない。
(何か嗅ぎつけたな……?)
ゼロに報告は上がっていない。しかし彼女が待田ケイの姿であるのなら、プライベートで訪れているわけでもなさそうだ。
降谷は少し前の苗字との会話を思い出していた。
『水無怜奈って偽名だものね』
キールのコードネームを持つのがアナウンサーの水無怜奈だと報告した降谷に対し、苗字は納得したように頷いたのだ。
『何で偽名だと思うんだ?』
そう尋ねた降谷に苗字は苦く笑った。長年待田ケイを名乗り続けた結果、今では偽名を口にした人間がわかるようになったと言うのだ。本人曰く“勘”なのだが、間違えたことはない。彼女はその“勘”を捜査に活かしたこともある。
(勘……か)
彼女が“勘”という言葉を遣うのは裏付けができないからだ。数字での裏付けができない以上“勘”でしかないと主張する。それでも降谷は彼女のその能力を信用していたし、彼女が無意味に動く人間でもないことを知っている。
(報告が上がっていない。しかし待田ケイの姿で通い続けている)
ならば彼女の“勘”がこのポアロで働いたのだ。
警視庁から盗まれた毛利小五郎の調書。組織から目を付けられた毛利小五郎のことを彼女は独自に調べたのだろう。そしてこの店を訪れ何かに気付いた。
(それなら僕も引き下がることはできないな)
降谷は毛利小五郎に張り付く計画を練った。その上で待田ケイとも接触するために考えたのが喫茶ポアロでのアルバイトだった。公安の降谷零、組織のバーボン、探偵であり喫茶ポアロのアルバイトの安室透。3つの顔を使い分けなくてはならなくなる。だがそのことに躊躇いはなかった。
■ ■ ■警察庁内の会議室では降谷の発言に課長が顔を顰めていた。
「アルバイト?」
「はい。毛利小五郎を調べるために必要かと」
「そんな遠回りしなくても安室透は探偵なんだから、彼に弟子として雇ってもらえばいいだろう」
「黒だと確定しているならばそうしますが、まだ疑い程度の人物にそこまで時間を割くのは現実的ではないでしょう。喫茶店のアルバイトが気まぐれで弟子入りをするくらいがちょうどいいかと」
難色を示す課長にスラスラと口上を並べる。組織にはベルモットがうまく言い含めた。ポアロで働くことはすでに決まっているのだが、公安にも報告しないわけにはいかない。
「しかし安室透の動きが増えれば苗字の負担も増す」
組織への潜入捜査を始めた頃に比べて、降谷が指揮をする公安案件は増えている。苗字もまだ潜入捜査を続けている。課長の懸念は正しいものだ。
「苗字には僕からちゃんと説明します」
「怒られるぞ」
「そうでしょうね」
こうして降谷は課長を説得することに成功した。彼女へ“いつ説明するか”は抜けていたが、まぁいいだろう。
勝手に決めるなと柳眉を逆立てる彼女の姿が目に浮かぶ。笑顔は言うまでもなく可愛い。ここだけの話、泣いた顔はとてもそそられる。だが怒った顔もまた降谷の心を昂らせるのだ。
その日は苗字が深夜に戻って来ることを聞いて、降谷は帰るのを止めた。どうせ書類もたまっている。仕事をしながら待つことにした。もう数週間も顔を合わせていないのだ。苗字に会いたい。
「珍しい顔がある」
苗字が本庁に戻って来たのは終電が出ようとしている時刻だった。待田ケイから苗字名前に戻り、電車でここへ来たらしい。車を運転する時は絶対にヒールを履かない苗字の足元を見て、彼女が始発まで帰らないつもりであることを察した。しかしそれでは降谷が困るのだ。
「苗字も書類仕事か?」
そう聞きながらどうやったら苗字を帰る気にさせられるか頭をフル回転させていた。
「せっかく久しぶりに会ったのに」
「降谷に会うために本庁に戻ってきたわけじゃないし。降谷も私に会うために来たわけじゃないでしょう?」
「それは半分正解。半分不正解」
降谷が組織の任務を続けていたことを慮ってのことだろうが、安室の家に独り帰って寝るよりも苗字を朝まで抱く方がいい。
「本庁に来たのは仕事をするためだけど、残ったのは苗字に会うためだよ」
黒い髪を指に絡めてキスを落とす。
降谷の身体を気遣い帰らせようとする。自分は大量の仕事に埋もれているのに手伝えと泣き言を漏らすこともしない。誰もが降谷と苗字を最高のバディだと認めている。
「あの約束も…待っていてくれてありがとう」
降谷の名前を贈ると言って数年が経った。
今も苗字の薄い肩に重い荷物を持たせたままだ。
苗字は好きだという言葉も、幸せにするという誓いも口にできない降谷にあの柔らかい微笑みを向けてくれる。
「会いたかった。名前」
泣きそうな顔をした苗字が愛しくて職場であることを忘れて口付けた。