Episode0.7310. 09
身体の中に溜まった数年分の涙が全て押し流されるようだった。
苗字は自分のために泣いたことが許せないと言った。自分がいなくなる恐怖に泣いたその日から彼女は泣くことを止めたのだろう。時折見せる彼女が何かに耐えるように見えた表情。あれは涙を堪えていた顔だったのだ。
堰を切ったように流れていく涙に「思いっきり泣いていいぞ」と言えば、子供のように声を出して泣き始めた。
苗字は恥ずかしいとかみっともないと思っているかもしれない。しかし降谷はそんなことは微塵も感じない。泣かれて嬉しいなんておかしな話だが、胸が温かく満たされるようだった。そっと抱き寄せれば、背中に腕が回る。ギュッと力を籠めると更にきつく密着してくる。
自分の胸の中で泣きじゃくる苗字が降谷はただただ愛おしくて何度も何度も頭を撫でた。
数十分経ってようやく落ち着いた頃には、声も枯れて頬に涙の跡がくっきりと残っていた。
泣き過ぎて肩で息をしている苗字の背中を擦ってやりながら、降谷は静かに話し始めた。
「なぁ名前」
鼻声でくぐもった「何」という声が聞こえる。
「さっきは降谷名前になればいいと言ったけど、降谷ケイでも構わないんだ。どちらでも君であることに変わりはないから」
断言してしまったので誤解がないようにしなくてはと思ったのだが、苗字は即座に首を振った。
「私は降谷名前がいい」
いざ本人からその名を口にされるとグッとくるものがある。
今更照れのようなものが沸き上がり、それを隠すように慌てて続ける。
「じゃあまず戸籍を戻さないといけないな」
今もまだ彼女の戸籍は待田ケイだ。名前の名前を取り戻すには元の戸籍が必要だ。
だがそのためにはあの組織を壊滅させなくてはならない。彼女の戸籍を戻すということは彼女の父親の戸籍もまた戻されることになるからだ。
「待たせることになる」
「わかってる」
戸籍だけの問題ではない。組織への潜入捜査官である降谷が特定のパートナーを持つことは大きな危険を伴う。
それだけが理由ではない。
全てを無視し、危険を顧みず降谷の名を贈ることができないわけではない。
だが苗字は組織に父親を殺された。降谷もまたあの組織に殺されたとしたら……。彼女は人生を奪われたあの夜をまた繰り返さなければならなくなるのだ。
降谷はもう二度と彼女に名前を失ってほしくはない。
だから降谷は必ず生き残って苗字の元へ戻る。
「僕は君に降谷の名前を贈る。約束だ」
ただの口約束だ。だが降谷にとっては誓いだった。
「ありがとう、零」
苗字がふわりと笑った。降谷が1番好きな、あの笑顔だった。
■ ■ ■窓から見上げた空は雲一つない晴天だった。
「僕が来ても良かったのですか?他にもご挨拶に伺う人がたくさんいらっしゃいますよね」
振り返った降谷の先にソファでコーヒーを飲む男がいた。白髪頭の大柄の男だ。強面で通っている彼の表と裏の顔の使い分けにはもう慣れた。
「ああ、山ほどいたぞ。だがそれも昨日までだ。今日くらいゆっくり余韻に浸らせろと言っておいたからな」
長年戦い続けた男が今日で警察庁を去る。定年後はゆっくり夫婦で過ごすのだと、全ての再就職の誘いを断ったところが実に彼らしい。
彼の元で働けたことは降谷にとって僥倖だった。警察官として警察官僚としての彼の在り方は若い降谷の心に深く刻まれた。
「潜入捜査はうまく進んでいるようだな」
「それは、どちらのでしょうか?」
「どちらもだ」
男の目が細められる。笑ったように見えたが、降谷が窓を背にしているから眩しかっただけかもしれない。どちらにしても降谷に簡単に本心を覚らせるような男ではない。腹の探り合いをしても勝ち目はないのだ。だから降谷は兼ねてより気になっていたことを問うことにした。
「あなたは苗字の異変に気付いていた。違いますか?」
男は降谷の向こう側、窓の外を見つめながら答える。
「潜入捜査に着いた者、戻ってきた者。たくさん見てきたからな」
「戻ってきた者……ですか」
「生きて帰ってきても元の生活に戻るのは難しい。潜入捜査とはそういうものだ」
「ですが苗字の場合は……」
苗字の異変は2回目の潜入捜査が始まったことに起因する。1回目の潜入捜査が終わった後は異常もなく落ち着いていた。
降谷が考え込むと局長の口の端がニヤリと上がる。
「お前は優秀だが、まだ若い」
ムッとした降谷に男は気を悪くするどころかクツクツと笑った。
「降谷、あの子を頼むぞ」
「はい」
「泣かせたら問答無用で見合いをさせるからな」
最近の彼女は涙を流すことを躊躇わなくなった。それは悲しみに限ったことではない。昨晩の善がる彼女の目尻に滲んだ涙を思い出して、降谷は緩みそうになった顔を必死に引き締めた。しかし微妙な表情の変化をこの男が見逃すわけがない。
「まさか泣かせたのか?」
「ごっ誤解です!」
一気に低くなった男の声に前のめりになって否定する。泣かせたという言葉には語弊がある。もう無理だと言った彼女の制止を聞かずに怒られはしたが、決して傷つけたり悲しませたりしたわけではない。
「ちょうど財務省の友人から息子の相手を探していると相談をもらっていたんだ」
「だから誤解ですって!」
「泣かせてないのか?」
「それ、は……」
男は携帯を取り出して指を動かし始めた。
「とにかくダメです!名前は……っ」
ハッと思わず口を手で覆うが、男の耳にはしっかり届いている。
「ホゥ?誰がダメだって?」
「あ……あの、えーと」
どうしてもこの男の前では平常心を保てない。うまく掌の上で転がされている。それが降谷の若さ故の未熟さなのか、男の熟練の手管によるものかはわらかない。降谷にできるのは頭を抱えて溜め息をつき降参することだ。抵抗を諦めた降谷を局長は愉快そうに眺めている。
「楽しそうですね?」
「楽しいな。こんな間の抜けた降谷は滅多に見られないからな。それに自分に何かあったら娘を頼むとアイツに言われていたんだ」
局長は窓の外に広がる空を見やった。もしかすると遥か遠い場所へ行ってしまった友に想いを馳せているのかもしれない。
「長いようで短かった気もするな。尽力してきたつもりが、失ったものが多かった。この手に残ったものは微々たるものだ」
もっとできたことがあったのではないか。せめて今の自分にできることはないだろうか。残された者の気持ちは降谷には痛い程理解できた。
それでも前に進み続けなければならない。僅かな手の中のものを守るために。
彼と同じだけ歳月を経た時、降谷は同じ気持ちでここを去ることができるだろうか。
「俺ができるのはここまでだ。後は任せたぞ」
局長が降谷に向き直る。降谷はスッと背筋を伸ばす。そして深く頭を下げた。
「本当にお疲れさまでした」
心からの謝辞を述べる。床しか見えない降谷に男の表情がわかるはずもない。だがきっと柔らかく微笑んでいるのだろうと信じて疑わなかった。