Dream


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Episode0.7310. 08



いつも一歩間に合わない。激しい後悔が降谷の全身を巡った。
普段は凛とした張りのある苗字の声は消え入りそうに細く小さい。絞り出された心の声は、本来叫んで喚き散らしてもおかしくないものなのに。

「降谷はわかっていたんでしょう?私がこうなるかもしれないことを」

降谷が苗字の過去を知って家を訪れたあの日に彼女は言った。母親の応援を裏切って選んだのが今の道だと。

『でも君は犠牲も払っている。待田ケイを潜入捜査に利用しているだろう?』

自分を責める言葉を重ねる姿が忍びなくて告げた降谷の言葉も、彼女は持っているものを利用しているだけだと否定した。

「私は犠牲だなんて思ってなかった。どうして降谷がそんな風に言ったのかもわかってなかった。だって私は苗字名前。念願叶って苗字名前に戻ることができた。だからもう大丈夫なはずなのに」
「苗字……」
「最初の潜入捜査の時には何も感じなかった。むしろ待田ケイの名前を呼ばれてもまだ反応できる自分が便利だとすら思ったの。自分の過去も役に立つんだって。でも2回目…今の潜入捜査に着いてからしばらくして、待田ケイと呼ばれる自分に違和感を持った。当然よ。待田ケイは偽名なんだもの。私は苗字名前……じゃあ待田ケイは偽物なの?」

待田ケイを偽名として利用するということは、待田ケイとして生きた過去を偽りとすることだ。苗字名前として生きるために、彼女は待田ケイとしての10年を失うのだ。

「私が生きてきた待田ケイの10年間は嘘?偽物の過去なの?だってあれは待田ケイの人生。苗字名前じゃない。でも生きたのは私。じゃあ私は誰なの?」

これは降谷が招いた事態だ。苗字は1回目の潜入捜査を無事に終えた。だから大丈夫なのだと思い込もうとした。待田ケイを名乗り続けることで起こり得るジレンマに気付きながら彼女に教えなかった。もっと早く指摘していればここまで苗字を追い詰めることはなかったかもしれないのに。

「母は私のために名前も人生も捨てたのに、私は私のためにすら過去を捨てられない。ずっと自分のことしか考えていない」
「だから今苦しんでいるのは罰だって言うのか?」
「だって私は自分のために泣いたの!!」

ここまで淡々と話していた苗字が初めて声を荒げた。くしゃくしゃに歪められた顔が痛ましくて、降谷は立ち上がって苗字の頭を自分の胸に押し付けた。

「前に話したでしょう?私が名前を取り戻そうとしたきっかけは母の死なの」

司法試験や国家公務員試験、母親が亡くなった時系列から、彼女が名前を取り戻すためにゼロへ入ったのは母の死が引き金であることは予想できた。だが降谷は予想ではなく彼女の口から直接話してもらわなくてはならないと思った。だから言い渋る彼女から半ば強引に理由を聞き出した。

「君のお母さんが亡くなって苗字名前の存在を知る人がいなくなり、君は待田ケイである事実しか残らなくなる」
「そう。とても怖かった」

独り残されたと実感した時『自分が消えてしまう感覚がした』と言った。彼女はすでに一度自分を、苗字名前という自分を失っている。彼女が最も恐れるのは『自分が生きているうちに自分がいなくなること』なのだ。

「とても怖くて怖くて……泣いたわ。母の死を悼んでじゃない。自分の恐怖のために泣いたの。私はそれが許せない」

母親の名前と過去の人生を捨てて得たものが待田ケイとしての未来だ。しかし彼女はそれを怖いと思ってしまった。そして選んだのは母親が捨てた過去を生きる道。苗字名前としての人生だった。苗字名前として生きることは、母が犠牲にしたものを裏切ることだ。だから彼女は自分が許せない。

「だからこれは自分のことだけしか考えなかった罰」

苗字の身体は降谷が抱きしめればすっぽりと隠れてしまう。この体にどれだけの想いを抱えてきたのだろうか。
彼女は自分の人生を必死に生きてきただけだ。
幼い頃に父を亡くし、名前を奪われた。新しい名前を懸命に生き、母を失った。自己を保てなくなった彼女が考え抜いて取り戻した自分の名前は、それを名乗ることで自身の過去を否定することになってしまった。それなら彼女はどう生きればよかったと言うのか。

「自分のことしか考えられなかったことが罪なら、僕も同罪だ」

降谷の言葉に苗字が顔を上げる。

「柔らかく笑う君を見ていたかった。その笑顔に少しでも影が差すことが嫌だった。だから君が抱えるかもしれないジレンマのことは気付かないふりをした。……すまない」
「違う!私が浅はかだっただけ。もっと慎重に考えればこうなることなんてわかったはずなのに」
「わかったらやめていたのか?」

ビクリと苗字の肩が揺れた。

「慎重に考えたら、ジレンマを抱えるリスクを回避して待田ケイとして生きることを選んだか?」
「それは……」
「どちらにしてもジレンマは抱えたよ。苗字名前の人生を捨てて待田ケイとして生きてもね。それは君の生きた10年が証明しているはずだ」

だから彼女の母親はあの男に娘を託したのだ。幼かった彼女ができなかった人生の選択を、もう一度できるように。彼女が自分で選んだ道を進めるように。
死期を覚った母親が局長に何を言い残したのかを伝えると、苗字の真一文字に結ばれた唇が震える。

「苗字名前として生きることは裏切りじゃない……?」
「待田ケイとして生きた10年を捨てられないなんて当然だ。苦しんで苦しんで生きた10年だ。その10年が苗字名前としてもう一度生きようと決断させたのなら、僕は感謝するよ」

彼女が苗字名前の人生を諦めていたら降谷とは出会えなかった。苗字のいない人生など、もう降谷には想像することもできない。
しかし苗字名前と待田ケイ、どちらかの道を選ばなくては進めない現実が彼女をこの場へ蹲らせる。

「苗字名前として生きることも、待田ケイとして生きることも、どちらも君を苦しませるなら……」

降谷は苗字の頬を両手で包み込む。

「僕は君に名前を贈るよ。苗字名前も、待田ケイも全てひっくるめて降谷名前になればいい」

過去が不確かなら、未来を確かにすればいい。
苗字名前も待田ケイも欠かすことのできない存在なら、どちらも抱えて生きればいい。
降谷はその方法を与えることができる。
隣で寄り添い歩んでいくことができる。
大きく見開いた苗字の瞳が揺らいだ。

「ああ……綺麗だな」

頬から伝った一筋の光を指で掬いながら降谷が呟く。
初めて見る苗字の涙はこの世のどんなものよりも澄んで輝いて見えた。



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