Episode0.7310. 05
夜中の住宅街は世界が滅んだと言われても受け入れてしまいそうな程の静けさだ。僅かに灯る窓からの明かりだけが生物の存在を表していた。
車を回せと言われた場所でしばらく待っていると、少し離れたマンションから出てくる人影があった。車を降りて助手席のドアを開けてやると、礼も言わずに乗り込んでくる。
「久しぶりね。バーボン」
バーボンの隣に座るのは小太りの中年男性だ。そこからベルモットの甘ったるい声がするのだから相変わらず彼女の変装術には驚かされる。
「なかなかの活躍ぶりだって噂よ」
「おかげさまで」
そんな噂を誰か彼女の耳に入れたのかは知らないが、実際このところ組織の任務が増えた。文句を言いながらもあのジンまでバーボンを使うことがあるのだから、組織内での信用は高いのだろう。一方で殆ど公安の方には顔を出していない。新しい潜入捜査が始まって忙しいだろう苗字には負担を掛けているはずだが、電話やメールでのやり取りからは全くその素振りを見せない。だから今夜は直接会って謝罪と感謝を伝えるつもりだった。顔を見たいという気持ちもあった。
それがベルモットからの一本の電話で白紙になってしまったのだ。
「今日はどんなご用件で?まさか送迎だけではないでしょう?」
今日バーボンに仕事は入っていなかった。しかもこんな夜更けを指定して呼び出すということはベルモットの仕事の手伝いということでもないらしい。彼女の様子からもすでに任務は完了しているようで、その証拠にベリッと剥がした変装用のマスクの下から美しい顔が現れた。
「あなた最近仕事のやり方を変えたって本当かしら?」
「どういう意味ですか?」
「女絡みの案件。以前は女をホテルへ連れ込んであっさり情報をもぎ取って来ていたのに、今は回りくどい方法で相手に近付いてるんですって?」
彼女にバーボンの噂を吹き込んだ人間は最近上昇しているバーボンの評判を快く思っていないようだ。徐々にシフトチェンジしていたのだが目をつけられていたのだろう。
「心外ですね。短時間で最低限の情報を得る…それもいいですが、その回りくどい方法でこそ得られる情報もあるんですけどね」
鼻で笑ってみせればベルモットはバーボンの瞳を覗き込むように頭を傾けた。睨まれているわけではない。むしろ赤く塗られた唇は弧を描いている。だがどうだろう。この女に見られているだけで背筋が凍っていくようだ。絡み取られるような視線から逃れようとする本能を押し隠していると、ベルモットは唐突に興味を失くしたように前を向いた。
「私はあなたの仕事のやり方をとやかく言うつもりはないの。でもうるさい連中がいるのよ」
「あなたも大変なんですね」
皮肉っぽく笑ってエンジンをかける。行き先を確認するために助手席を振り向くと、珍しくベルモットが目を見開いたままこちらを見ていた。
「……どうしました?」
「前にも同じことを言われたのよ。あなたとはタイプが違うけど絵画みたいに綺麗な顔をした男に」
その時頭に浮かんだのは以前バーボンだった男のことだ。彼の顔は知らない。だが彼女は父親似だと言っていた。
(そんなわけない、か)
彼がバーボンだったのはもう14年程昔の話だ。自分と同年代のベルモットに彼と面識があるはずもない。自分の馬鹿げた考えを否定して首を横に振る。
「その男にもこんな送迎を?」
「まさか。任務以外でアイツと同じ車内にいるなんてごめんだわ。口数が少ないくせに出てくる言葉は皮肉な上に、私が誘惑しても全く靡かないんだもの」
「…それはそれは」
ベルモットにここまで言わせるのだ。かなり辛辣な言葉を並べたのだろう。
あり得ないと思いながら、彼女によく似た男が薄く笑って皮肉を口にするところを想像してしまう。なかなか強烈な光景だ。
「ちなみにその男は?」
「死んだわよ」
「……そうですか」
任務に失敗したか、または自分と同じムジナか。ベルモットの顔を歪ませるほどの男でも生き残ることはできなかったということだ。
静かになったベルモットからは何を考えているのか察することはできない。話しかけるなという雰囲気まで放ち始めているが、尋ね損ねた行き先をどうしたものか。バーボンはゆっくりと夜の闇を進んで行った。
■ ■ ■ベルモットを送り届けた後、安室のセーフハウスに戻ったものの眠る気になれずにいるといつの間にか朝日が昇り切っていた。
せめて声が聞きたい。会う約束が潰れてしまったせいもあるが、ベルモットとの会話で苗字の顔を思い浮かべたことで拍車がかかってしまった。
時刻は朝の7時。彼女の生活スケジュールはだいたい把握している。この時間であれば少し話せるだろうと降谷は携帯を取った。
ワンコール、ツーコール、スリーコール。
普段の彼女ならスリーコール以内に出るはずが、この日は耳元で無機質なコール音が続いていた。シャワーでも浴びているのだろうかと切ろうとした時「はい」と苗字の声が聞こえた。
「おはよう。今、大丈夫か」
『ええ』
自ずと気持ちが高揚してくる降谷とは反対に、苗字は起き抜けなのかどこか気怠そうだ。
「その……昨日行けなくてごめん」
『組織から呼び出されたんでしょう?仕方ないじゃない』
組織からの呼び出しには変わりないがやったことはベルモット個人の小間使いのようなものだ。任務とも言えない内容で彼女との約束を反故してしまったことに胸がチクリと痛む。
『何かあったの?』
「いや……そういうわけではないんだが」
『そう?なら切っていい?支度中だから』
「ああ、すまない。また今度埋め合わせする」
『気にしなくていいわよ』
そう言って通話は切られた。支度中なのは本当だろう。シャワーから出たばかりだったかもしれない。会話が短く打ち切られたとしても別におかしくはないのだ。しかしこの違和感は何なのか。
(そうか……)
朝起きられなくて不機嫌な彼女は何度か見ている。仕事で無茶をして怒られたこともある。だから彼女が不機嫌でないことも怒っていないこともわかる。
だが電話の向こう側の苗字がどんな顔をしていたのか。なぜか想像できない。
確かめたかった。しかしもう一度掛け直す明確な理由もなく、降谷は携帯を置いた。