Episode0.7310. 01
何も聞こえない。ただ自分の心臓が跳ね上がるように脈打っていた。
ひたすらに足を動かして昇った先に見たものは、風に靡く黒い髪と白い硝煙。そしてゆっくりと流れていく赤い血だった。
「裏切りには…制裁をもって答える…だったよな?」
顔色一つ変えずに立っていた男。そしてその奥にいたのは……。
全ての後処理を終えてもまだ朝日は出ていなかった。随分と手慣れてしまったものだと自嘲する。彼の胸ポケットに入っていた携帯は抜き取って来た。これだけは他の誰の手にも渡すつもりはなかった。
「ヒロ……」
返事が返ってくることは二度とない。あの男への怨嗟に染まっていた感情がゆっくりと別の色に変わっていくのがわかる。それは白ではない無色だ。何も考えられず、視界がふらふらと定まらない。自分が立っているのかどうかも曖昧になって肩で呼吸をしていた。
そしていつの間にかよく知る扉の前にいた。朦朧とした頭でインターフォンを押すと、少し間を置いてからガチャリと鍵の開く音がした。
■ ■ ■まだ薄暗い部屋の中で意識が覚醒する。全身の虚脱感も混濁した思考もなくなっていた。昨夜のことは悪夢だったのだと勘違いできたらいいのに。目に焼き付いた鮮血は降谷を現実に引き戻した。もう一度眠ったら今度こそ夢になるのではないかと寝返りを打とうとして初めて違和感に気付く。
腕の中に自分以外の温度がある。ゆっくり視線を移してみれば、広い肌と細い腕、そして見覚えのある艶やかな長い黒髪があった。
「苗字……!?」
なぜ苗字がと考えてこの部屋の空気が降谷の自宅ではないことに気付いた。もちろん安室透のセーフハウスでもない。目だけで周囲を探れば天井も壁も、降谷が知る苗字の家のものだった。
苗字を抱きしめるように腕を回している自分の身体は、一切の着衣を纏っていない。それは彼女も同じであることは密着した部分から容易に想像できた。
ぼんやりとしていた降谷の頭が急速に回転を始める。だが考えるまでもない。何が起きたかは状況が如実に物語っていた。
「ん……」
うっすらと苗字が目を開けた。間近にある降谷の顔に驚いたのが一瞬。すぐに感情を隠してしまったのでそれ以上は降谷も読み取ることはできなかった。
苗字はゆっくりと降谷から離れて上体を起こした。はらりと布団が落ち形の良い胸が露わになったが彼女は隠しもしなかった。
「もしかして覚えてない?」
怒気もない揶揄もない。単なる確認といった問い掛けだ。彼女にそう思わせるほどに降谷は狼狽していた。
「いいや。覚えてる」
狼狽していたのは昨夜の自分の行動に対してだ。親友を失って動揺していても記憶を手離すことはしない。どれだけ忘れたくても鋼の精神力がそれを許さない。どうやって後処理をしたのかも、彼の最期がどんな顔だったのかも全て思い出せてしまうのだ。しかし記憶の有無と理性の有無はイコールではない。
「降谷は正気じゃなかったのよ」
「そうかもしれない。だが……」
バーボンとして組織に報告をした。降谷零として警察庁にも連絡をした。苗字にも同じことを言えばいいだけだった。しかし降谷にできたのは途切れ途切れの単語を呟くだけだった。それにもかかわらず彼女は何が起きたのかを理解してくれた。弱った降谷に手を差し伸べてくれた彼女に自分は何をした?
「降谷は悪くない。私がそれでいいと判断して受け入れたの。合意の上なんだから何の問題もないわ。だから降谷は玄関を出たらなかったことにすればいいだけ」
苗字は冷静だ。今の2人の関係を考えて最善の方法を提示していた。
「シャワー使うならどうぞ。でも朝食は用意しないわよ」
ただの同僚だという線引き。淡々と話を進める苗字は職場での彼女そのものだった。彼女は降谷を責めることなく、白紙に戻してくれると言っているのだ。幻滅されず2人の関係を維持したいのであれば選択肢は一つだ。
「……降谷?」
黙ったままの降谷を苗字が覗き込むと、はらりと髪がシーツに落ちた。昨夜降谷に組み敷かれて広がった苗字の黒髪が脳裏に蘇り身体が熱くなる。
「無理だ」
予想外の否定の言葉に苗字の眉が顰められた。
潤んだ瞳。甘く啼いた声。滑らかな肌。柔らかい唇。降谷を受け入れた中の温かさ。昨夜の情事全てが降谷に刻み込まれている。
「なかったことにするのは無理だ」
絞り出すように言った降谷へ向けられたのは、絶望にも近い悲しい瞳だった。
「駄目。お願いだから黙って出て行って」
「僕の気持ちなんてとっくに知ってただろう?」
「はっきり言わなければなかったことにできるのよ」
降谷は同僚でバディで潜入捜査官だ。しかも彼女の父親を死に追いやった組織の。
捜査が終わるまで何年かかるかもわからない。その間、苗字名前との繋がりは絶対に悟られてはいけない。バディとして以上の関係など邪魔なだけだ。だから苗字はそこに戻るチャンスをくれた。
「なかったことにはしたくない」
初めはただの同僚だった。気の合う優秀な同期。だがあの夜、苗字は友人を失った降谷の悲しみを掬い上げた。気付かないふりをしても良かったのに声を掛けてくれた。別れ際に向けられた柔らかな笑顔に初めて本当の彼女を見た気がした。
あの時にはもう降谷の心は動かされていたのだろう。
怪我を理由に彼女の私生活に入り込んだ。無理矢理にでも彼女と関わりを持ちたかったのだと今ならわかる。そして知った彼女の過去。降谷は彼女の内側に踏み込むことを許された。
少しずつだ。少しずつ2人の関係は変化してきた。なかったことになんてできるはずがない。
「今更何をと思われても仕方ない。でもこんな形で君を抱きたかったわけじゃない」
必死で首を横に振る苗字の頬を両手で包む。
「許してくれなんて言えない。でも、もう一度チャンスをくれないか」
ここで手を離したら、苗字は昨夜の出来事と共に2人の間にあるこの感情を全て清算してしまうだろう。本当の意味でなかったことにするために。そしてもう二度と降谷の胸の中には戻ってこない。降谷はまた失ってしまうのだ。
「チャンスって……」
「やり直しさせてくれ」
ドサッと苗字の身体を倒してシーツに縫い付けると、鼻が触れそうなほど近くで囁く。
「なかったことにはしたくない。でもはっきり言うこともできない」
「最低な男ね」
「その通りだ。僕は言葉で伝えてやれない。態度にだって出してやれないこともある。だから甘やかせる時はドロドロに甘やかしてやる」
「そんなのやっぱり最低だわ……」
顔を覆ってしまった苗字の手に口づける。
「名前。君を抱きたい」
細い腕が降谷の首に回された。そのまま2人はシーツの海に飛び込み甘美な波に呑まれていった。