Episode0.7310. 00
組織の任務を終えて駅前の雑踏の中を歩いていると、隣の諸伏が唐突に立ち止まる。
「ゼロ!見てみろよ!すっごい美人がいる!」
諸伏の目線の先にはショーウィンドーの前に立つパンツスーツの女がいた。通り過ぎていく人たちがチラチラと見ていることは気にならないらしく、腕を組んでマネキンの服を凝視している。
「あんな美人でスタイルも良ければ何を着ても似合いそうだけどな」
顔の造作と服の着こなしは関係なさそうだが、諸伏を指摘することはせず彼女が睨んでいる服を確認する。細身のシルエットにレースをあしらった夏らしいワンピースだった。なるほどと心の中で頷く。
「確かに似合うだろうな」
「だろ!?何に悩んでるんだか」
「何に……か。例えばワンピースは可愛いが自分はいつこれを着るのだろうとか、この丈だと走ったら下着が見えてしまうんじゃないかとか、汚してしまったらホームクリーニングはできるだろうかとか。そんなところじゃないか?」
淀みない降谷に諸伏が目を丸くする。
「知り合いか?」
「前に話しただろ。僕のバディだよ」
その言葉に諸伏がますます大きく目を見開いた。
一方、苗字は店に入ることはせず前方を歩き始めていた。ワンピースの購入は見送りになったらしい。
「めちゃくちゃ美人じゃないか!!あれでゼロが認めるくらい仕事ができるのか!?」
「そうだな。すごく助けられてる。でも一つ言わせてもらうと、苗字は美人ではあるけど結構可愛いんだ」
諸伏があんぐりと口を開けた後「はぁぁぁ」と盛大な溜め息と共にしゃがみ込んだ。周りの人間が何事かと二人を窺っている。任務の後だ。目立つのは良くないのではないだろうか。
「なんかノロケられたけど……。ちゃんと自覚したんだな」
降谷は微笑んだ。思い返せば諸伏は誰よりも先に気付いていたのだ。芽吹いたばかりの降谷の淡い恋心を。
「告白したのか?」
「しないよ。付き合えない。わかるだろ?」
降谷は犯罪組織への潜入中だ。特定の誰かと付き合うことは、その相手を危険に晒すということだ。その上相手が公安警察の人間なんて、降谷自身の身も危うくなる。同じく潜入捜査をしている諸伏だ。そのことは重々承知しているはずだ。
だがそれだけではない。彼女の父親もまた組織の潜入捜査官だった。彼女はあの組織に肉親を奪われている。そこへ潜入している降谷が付き合おうなどと、到底言えることではない。
「ゼロがノロケるくらいに惚れる子なんてもう現れないかもしれないんだぞ?」
「苗字と同じような人間がこの世に2人もいてたまるか」
「ヤバイ。マジだ。ゼロが本気だ」
「ヒロは僕のことを何だと思ってるんだ」
しゃがんだままだった諸伏の腕を引っ張り上げると、ニヤニヤした表情を隠しもせず更に質問を重ねてくる。
「ゼロの言い方だと両想いってわかってるみたいだけど」
「はっきりと聞いたわけじゃない」
「でもそうなんだよな?」
「……自惚れさせてもらってる」
さすがに照れくさくて視線を逸らす。諸伏のクスクスという笑い声が聞こえたが、決して不快になるものではない。
「でもさ、あんな美人だったらモテるだろうし。ゼロを待ちきれずに他の男が恋人になっちゃったりして……」
「あり得ないな」
苗字は公安という職業以上に、その複雑な経歴もあって他人に対する警戒心が強い。欲しいからと言って簡単に恋人を作るような人間とは考えられなかった。
だがそこまで詳しいことを諸伏に説明することはできない。
「即答かよ……。彼女だって恋人が欲しいし、結婚だってしたいかもしれないぞ」
「今のところ結婚したいとは思っていないそうだ」
「何で知ってるんだよ」
頭を抱えてしまった諸伏に苦笑して、ふと降谷はもう一度ショーウィンドーに視線をやる。
彼女のことだ。きっと迷うくらいなら買わないでおこうと割り切ってしまったに違いない。改めてワンピースを見れば、形も色も苗字のイメージにぴったりだった。
「おい、ゼロ!?」
スタスタと歩き出した降谷を諸伏が慌てて追いかける。降谷は躊躇わずに女性服の店へ入り、店員に声を掛けた。突然の男2人の来店に女性店員は驚いたようだったが、即座に持ち直し笑顔を浮かべた。
「すみません。あのマネキンの着ているワンピースが欲しいのですが」
「サイズはおわかりになりますか?」
「はい。サイズは……」
サイズとプレゼント用に包んで欲しいことを伝えると、店員は頬を紅潮させていそいそと店の奥へと入って行った。その後しばらく、スタッフルームにいただろう他の店員が代わる代わる降谷たちを見に来たことには気付かないふりをした。
慣れない場所に落ち着かない様子の諸伏は声を潜めて降谷に問い掛ける。
「買うのか?」
「ああ」
「誕生日が近いとか?」
「いいや。似合うのに勿体ないだろ」
それを聞いた諸伏の顔は見物だった。驚きとも呆れとも言えない、強いて言うなら珍獣を見る目をしていた。
数分後には綺麗にラッピングされた箱を受け取った。満足して店を出た降谷とは対照的に諸伏は難しい顔をしている。
「どうしてサイズを知ってるんだ?」
「ああ……。まぁ色々あるんだ」
降谷の曖昧な回答に黙り込んでしまった諸伏の中では、おそらく色っぽい想像が掻き立てられているのだろう。だが現実は残念なくらいに味気ない。まだ苗字が怪我をしていて、降谷が部屋に通っていた頃のことだ。毎度脱ぎ散らかされる彼女の服を降谷は片付けるだけでなく洗濯することもあった。だから洗濯タグを確認する時にサイズも見てしまっていた…というのが真実だ。
「なぁゼロ。それ、何て言って渡すんだ?」
指差した先は降谷の小脇に抱えられたラッピングされた箱だ。揶揄うように顔を覗き込んでくるので、少し考えてからニヤリといたずらっぽく笑ってやった。
「聞きたいか?」
「……馬に蹴られそうだからやめておく」
それは夏の始まりの日だった。雲一つない青空の下、堪え切れず大声で笑い出した降谷の隣を諸伏が歩いていた。