Episode0.5. 10
ピンポンと鳴った音は丑三つ時の廊下にやたらと響いた。家の主が起きてドア越しにこちらを伺う気配がする。数秒して降谷1人だと判断した苗字が扉を開けた。
こんな非常識な時間に訪れたことを苗字は責めるどころか何一つ尋ねてこない。ドアを開けた瞬間、彼女は感じ取ったのだろう。鼻をつくあの独特の臭いに。
「シャワーでいい?お湯入れようか」
黙って首を振ると、その否定がシャワーを借りることに対するものか湯を張ることに対するものか判断しかねる様子だったので「タオル貸してくれ」と言うとホッとしたように頷いた。
この家には何度も来ているがバスルームに入るのは初めてだ。こんな状態でなければ別の感想もあるのだろうが、今はただ全てを洗い流したい。
熱めの湯を頭から浴び続ける。
俯いた目線の先には、薄っすらと色がついた湯が足元から流れていく。しばらく無感情に見つめていると徐々に正気が戻ってきた。
脱衣所で苗字が動いているのがわかる。わざと物音を立てている。降谷の脱いだ服を洗濯してくれるようで、洗濯機の規則的な稼働音が聞こえる。
(そういえば服にもついてたな……)
彼女は見てしまっただろうか。否、そんなことは今更だ。彼女は全てわかって降谷を招き入れたのだから。
全身を洗い流しているとドア越しに「降谷」と呼び掛けられた。
「何だ?」
「ごめん。着られそうな服がない」
「あったら困るな」
「ないから困るんじゃないの?」
微妙に噛み合わない会話に溜め息が漏れる。とりあえずタオルがあればいいからと苗字を追い返した。
身体の物理的な汚れが落ちたことを確認してバスルームを出る。それでもまだ身体にはあの臭いがこびりついている気がしてならない。錯覚だと自分に言い聞かせてバスタオルに顔を埋める。
(苗字の、匂い)
タオルから顔を上げると降谷を捕らえていた錯覚は消えていた。
腰にタオル1枚を巻いた降谷がリビングに戻ると、苗字がカップに何かを注いでいるところだった。
「それは?」
「ホットミルク。ベタでしょ」
大きめのマグカップの中で真っ白な液体が揺れている。一口含めば温かさが口内に広がっていった。
改めて苗字を見る。寝ていたのだろう。薄紫のスウェットパジャマだ。結われていない黒髪は彼女の動きにあわせてサラサラと揺れた。当然だが化粧もしていない。待田ケイほどではなくても勤務中はメイクをしているので素顔は初めてだが、そのままでも十分に綺麗だと思う。
「1番会いたくないと思ってたんだけどな……」
深夜に勝手に押しかけておいてこの発言だ。苗字の眉がピクリと吊り上がる。反射的に言い返さなかったのは、降谷の顔に影があったからかもしれない。
「割り切れるはずだった。いいや……割り切れてはいるな。後悔もない」
選択の余地はなかった。そこに自分の感情を挟むほど降谷の覚悟は緩くない。ならば今自分の中を巡るこの黒い渦のような重たさは何なのだろうか。
「私は降谷が平然としているよりいいと思ったけど」
彼女は肩を竦めてマグカップを傾けた。猫舌の彼女はこれが一口目だ。言い表しようのない降谷の葛藤は苗字に伝わっているようだ。
組織への潜入捜査が決まり、この日が来ることは覚悟していた。いざその時を迎えてみると自分でも驚くほど冷静だった。淡々と対処した安室を銀髪の男は一瞥しただけで去っていった。
予想外だったのはここからだ。組織の人間として手を汚した自分なんて絶対に見せたくないと思っていた。他の誰でもない、彼女にだけは。父親のしたことを目の当たりにさせるようなものだし、何よりそんな自分を見られたくはない。それなのに降谷がとった行動は赤く染まったままの姿で彼女の家に押し掛けるという暴挙だった。
「ただ、会いたいと思ったんだ」
自分が置いたマグカップのコトンという音がやけに遠くに聞こえる。正面に座る苗字は目を見開いて降谷を凝視している。
「ただひたすらに苗字に会いたいと思ったんだ」
それは衝動だった。任務を遂げ、後処理を終えた降谷は気付けばハンドルを握っていた。頭の中では警鐘が鳴っている。
赤い血だまりを見た瞳に彼女を映すのか。引き金を引いた手で彼女に触れるのか。
絶対、そんなことはしないと考えていたはずなのに。
降谷の頭に浮かぶのは苗字のあの笑顔だけだった。
「今日、ここに泊ったら駄目かな」
その一言に苗字が息を呑む。
「別に何かしたいわけじゃない。ただ、苗字と同じ空間にいたいんだ。そうすれば、朝になる頃にはいつもの僕に戻れる」
自覚しないわけにはいかなかった。
苗字は特別な存在だ。
ただの同僚ではない。バディだからという意味でもない。
(僕は苗字のことが……)
阻まれると思った手はそのまま白い頬まで辿り着いた。
「……何もしないんでしょ」
「しないよ」
そう言って微笑むと、頬を撫でる手に小さな手が重なった。
「シャツの染み、落ちないと思う……」
「うん」
「明日、お店が開いたら新しいシャツ買いに行ってくる」
「うん。お願いする」
ふわりと苗字が笑う。
もう渦を巻く重い感情はなくなっていた。
■ ■ ■待ち合わせの場所へ行くと大きな帽子で顔を隠した金色の髪の女が立っていた。
「はぁい。あなたね」
口調とは裏腹に落ち着いた声音は聞く者によっては色香を感じるのだろう。ほんの少しだけ上を向くと帽子の中から有名な女優の顔が現れた。安室が全く動揺を見せないことに女は満足したように口角を上げた。
「私はベルモット。ボスからあなたのコードネームを預かって来たわ」
コードネーム。組織の幹部クラスになった証だ。あの銀髪の男は安室を組織にとって有益な人間だと判断したようだ。
ベルモットは優雅な仕草で安室の耳元に赤い唇寄せ、その名を囁いた。
「気に入ったかしら?」
「ええ。とても」
ニコリと微笑んでみせる。しかし心の中ではベルモットの顔を見た時よりも大きな衝撃を受けていた。
何という偶然……いいや、皮肉だろうか。
その名を呼ばれる限り、彼女に触れるなと彼に告げられているようだ。
『組織から名前を与えられた』
あの報告書の文字を一言一句違わずに思い出せる。
『コードネームはバーボン』