Episode0.5. 09
深夜の警備企画課の部屋には降谷と苗字の2人だけが残っていた。
潜入捜査のための準備や下調べを進める降谷の隣で、苗字は引き継ぎ資料を熱心に読んでいる。
「安室透は探偵なのね。情報屋ってところ?」
「探り屋って呼ばれるらしいぞ」
降谷の潜入時の名前は安室透に決まった。組織への入りやすさや、立ち回りの都合の良さから探り屋がいいだろうと結論を出した。
「降谷は情報を探るのが得意だものね」
「誉め言葉と受け取っておこう」
軽口を叩いてクスクスと笑っている苗字はグレーのパンツスーツに黒い髪をきっちりと縛っている。彼女は潜入捜査を終えた。再び待田ケイから苗字名前へ戻ったのだ。
そして入れ違いで潜入捜査となる降谷のため、自身の捜査を終えたばかりだというのにこうして毎日深夜まで協力してくれる。バディを組むことに最初はあれほど怒っていたのに、いざやるとなると愚痴の1つもこぼさない。苗字らしいと言えばらしい。しかし降谷が例の組織に潜ることについて驚くほど何も言ってこないのが気に掛かる。
「父親を殺した人間を突き止めて欲しいとは言わないんだな」
小さな呟きを苗字の耳は逃さず、資料から顔を上げて降谷を見つめた。
「言わないわ。突き止めてどうするわけでもないもの。それに、誰が手を下したかじゃないのよ。父は失敗した。だから組織に殺された。それだけよ」
「罪を憎んで人を憎まずって奴か」
「そんな綺麗なものじゃないわ。降谷は知ってるんでしょう?父だって同じことをしていたはずよ」
降谷を見つめてくる瞳の奥に翳りが差した。
彼女が読むことを許されない機密扱いの報告書には、彼……苗字の父親が何を行ったのかが詳細に記録されていた。
彼もまた探り屋だった。探り屋の仕事の1つに、組織内の裏切り者の炙り出しがある。彼は探り屋の立場を利用して、幹部に報告すれば消される裏切り者を公安の力で秘密裏に保護していた。だが全てを保護できたわけではない。できたのは末端の構成員だ。始末する対象が上層部になればなるほど、確実に消すことが要求される。幹部が監視する中で裏切り者を追い詰めることもあった。そんな時、彼が取れる選択肢は1つだけだった。
「私が父を殺した人間を恨むことは、父が誰かに恨まれるのを肯定することになる。それに……」
資料を持つ小さな手に力が入る。俯いてその先を続けることができない苗字の代わりに降谷が言葉を引き取った。
「僕も恨まれることになる」
降谷もまた同じだ。組織へ入る以上、手を汚す日はいずれ訪れる。苗字の父親と何一つ変わらない。
「降谷はそれでいいの?」
「いいも悪いもない。これは仕事だ。恨まれて当然のことをするんだから受け止めるだけだ」
恨まれたくないと言える立場でもない。恨まれても憎まれても自分のやるべきことをする。
それが正しくなくても、最善の方法でなくても、だ。
苗字は一度睫毛を伏せると、ギュッと口を真横に結んだ。そして次に顔を上げた時にはいつもの強い彼女の眼が降谷を射抜いた。
「私は父を殺した人間を恨まない。私はその道を選ばない」
父親への想いから出た言葉かもしれない。しかし世界中の人間が降谷を恨んでも苗字だけは恨まない。そう言われた気がした。
■ ■ ■安室透が組織へ潜入を果たして数ヶ月。組織が探り屋に求める情報は多岐に渡った。末端の構成員である安室が情報を得たその先を問うことは許されない。だが問わなくても「知っている」と相手に匂わせることはできた。要求された情報のその先まで使えるネタをほんの少しだけ渡してやればいい。安室が直接伝えた相手は不思議がっていたが、そのネタを上に渡すように念を押した。それを繰り返すうちに、ただ情報を受け取るだけの伝達役はいなくなり、安室は幹部に近い人間と直に接するようになっていった。
「また潜ることになった。今回は少し長いかもしれない」
『了解』
彼女の返答はいつも短い。余計なことは心配するなということだろう。身勝手かもしれない解釈だが、降谷は毎回安堵を覚えた。
通話を切ると早速安室は動き出した。今回の任務は裏切り者の調査だった。それも幹部に近い人間が疑われていた。易々と尻尾は掴ませてくれないだろう。
しかしこの調査を任されたということは、組織からある程度の信用を得たと考えていい。成功すれば一気に幹部に近いところまでいけるのではないか。
予想は正しかった。情報を掴んだと連絡した安室を待っていたのは、黒い服を纏った長い銀髪の男だった。
「最近使えるって噂の探り屋はテメェか」
周りの空気が凍えそうな低い声だった。全身が本能でこの男は危ないと警告している。だが溢れ出しそうな冷や汗を抑え、安室はニコリと笑った。
「そうだと思います」
柔らかく丁寧に、それでいて自信たっぷりに答えてやる。すると男はフンと鼻を鳴らすと胸元からあるものを取り出した。
「使えるってんなら証明して見せろ」
男が手袋越しに安室へ手渡したのは、黒い鋼の塊だった。
(見極める気か)
組織に従順であるか。裏切らないか。安室透は試されている。
手にしたそれは安室の手の中で重みを増していった。