Episode0.5. 08
局長室を出た1時間後、2人は揃って課長に呼び出された。降谷が選んだバディは課長も予想通りだったらしく、細かな取り決めもトントン拍子で進んだ。唯一、ずっと難しい顔をしていた苗字を除いては。
「バディって本人の承諾なく決めるものかしら?」
キッチンでは怒りに任せたキャベツの千切りが量産されていた。
その日珍しく定時で上がれたのは降谷だけではなかった。仕事が山積する中で2人に定時で帰るよう声が掛かったのは「苗字の機嫌を取って来い」ということなのだろう。
並んで本庁を出た2人は無言のまま電車に乗り最寄りのスーパーで食料を買い込むと、そのまま苗字の家へ向かった。
いつも通り散らかった寝室を降谷が片付ける間、苗字はキッチンで夕食の準備を始めた。
「事前に話していなかったのは悪いと思ってるよ」
まだ終わらないトントンという規則正しい音に苦く笑って服をハンガーに掛けた。
これは偽りのない本音だ。バディのことはきちんと話すつもりだったのだ。でも苗字の過去の件でバタバタしていてタイミングを逃してしまった。
「君の潜入調査もちょうど入れ替わりで終わりそうだし、いいじゃないか」
「降谷にとっては、でしょ?私は一方的に仕事が増えるのよ!?」
振り返った苗字はビシッと包丁を向けてくる。
「仕事が増えることに不満を持つタイプとは思わなかったな。第一、いつもってわけじゃない。僕が組織の任務で連絡が取れない時の代理だよ」
「あのね、その時だけでどうにかなる仕事じゃないでしょう!?事前に知っておかないといけない情報がどれくらいあると思ってるの!?」
「君のそういう如才ないところを見込んでのことなんだが」
「嬉しくない!」
包丁を置いた苗字が今度は卵を割り始める。力を入れ過ぎて殻が入ってしまったらしく、舌打ちしながら取り出している。
「僕のバディに苗字以外が指名されると思うのか?」
ニッコリ笑って問いかけると、苗字の吊り上がっていた眉が徐々に元の位置へと戻って行く。そして最後に大きな溜め息が漏れた。納得してもらえたようで何よりだ。
「これで完全に行き遅れるわ」
「ん?苗字は結婚したいのか?」
「言葉の綾よ。公安の仕事をしていて、その上特殊な事情を抱えてて、そう簡単に結婚できるなんて思ってないわ」
部屋の片付けを終えた降谷が手伝おうとキッチンへ入ると、すでに料理は終わりに差し掛かっていた。チキンライスが綺麗な黄色の膜に包まれようとしている。
「難しいことを抜きにすれば結婚したいってことか?」
降谷の質問に手を止めた苗字は「んー」と唸って考え込む。
「今のところ結婚したいと思ってないわね。他人と一緒にいるのって疲れるし」
彼女の歩んできた人生を振り返れば当然と言えた。苗字にとって他人は警戒すべき相手で、気を許す存在ではなかった。これまでは常に一線を引いてきた存在のはずで、安らぎや癒しを求められるはずもない。しかしこうも面と向かって拒絶されてしまっては複雑な心境だ。
「僕も他人だけどな」
拗ねたように呟くと、きょとんとした苗字が首を傾げた。
「降谷は特別でしょ」
何を言っているのかと苗字が笑う。何を言っているのかと言いたいのは降谷の方だ。
特別というのは公安警察の立場を知っていると言う意味なのか、過去のことを知っているという意味なのか。詰め寄りたいがそれは躊躇われた。
降谷が苗字の事情を知ったのはつい先日だ。後者の意味だった場合、それまで2人で過ごした時間も彼女にとっては窮屈なものだったのだろうか。
「どっちでもいいか。今更だ」
「何のこと?」
「僕がこうして苗字の家に来ることもなくなるってことだよ」
降谷の言葉にピタリと苗字の動きが止まる。驚愕、と表現してもいい程だった。
「……何でそんなに驚くんだ」
苗字の腕はリハビリの甲斐もあって順調だ。予定よりも早く治癒していく苗字の腕を医者はマジマジと見て『細いのに逞しい』と表現したと言う。完治まであと僅か。今も何不自由なく料理ができている。
元々怪我をした彼女を手伝うために来ているのだ。怪我が治れれば降谷がここへ来る理由はなくなる。それだけではなく、降谷は潜入捜査に入る。それも犯罪組織への潜入だ。いつどこで見られているかもわからない。公安の人間と会っているところを見つかるわけにはいかない。何より苗字に危険が及ぶのは避けたかった。
だから降谷はこの家に来るのは今日を最後にしようと思っていた。
呆れながら部屋を片付けることも、彼女と並んで料理を作ることもない。
普通の職場の同僚に戻るのだ。
「そう、だよね。……困るなぁ。降谷がいないと絶対に部屋がゴチャゴチャになる」
「これからは服を脱ぎっぱなしにするなよ。片付けが苦手なら散らかさないようにするんだな。僕はもう片付けてやれないんだから」
努めて平静に言ったつもりだ。苗字は「そうだね」と笑ってその話題を打ち切った。
「オムライスできたよ」
「うまそうだ」
「へへっ。好きなんだ、オムライス」
降谷と苗字はいつも通りに向かい合って座った。
ふわふわのオムライスは美味かった。やはりもう降谷の手は必要ないことを悟る。そして彼女一人で作った料理を食べるのは今日が初めてだと気付いた。
(最初で最後だろうな)
その3か月後、苗字は潜入捜査を終了した。