Episode0.5. 06
熱いコーヒーが喉に流れる。いつもなら「お疲れ様」と言いながらカップを手渡す苗字が、無言でテーブルに置いたのが5分前。向かい合って座った2人は静かにその中身を減らしている。
ようやくカップが空になったところで降谷が口を開いた。
「11年前に何かが起きた。君とその母親が名前を変えるほどの出来事が。だから僕は11年前に公安が関わった事件を調べた」
「何か出てきた?」
「何も出てこなかったよ」
公安が取り扱った事件で11年前に大きな動きがあったものはなかった。
「その前に君に言わないといけないことがある。僕に潜入捜査の任が下った」
「潜入捜査……まさかあの組織への…?」
ゼロの中でも組織への動きがあると噂されていた。そのことは苗字も聞き及んでいたようだが、そこに降谷が入ることまでは知らなかったらしい。
「僕は組織の資料を確認した。普通なら閲覧できない過去の報告書も見られるようになった。そこには1人の潜入捜査官がいた。それまでは組織の存在自体はわかっていても雲をつかむような状態だった。それが彼の潜入捜査以降一変している。優秀だったんだな」
組織の上層部に足を踏み入れることがなければNOCと疑われることもなかったはずだ。だが彼はその一歩を躊躇わなかった。
「彼の潜入捜査はある日突然終了した。犯罪組織というものは組織そのものがなくならない限り一度入ったら抜け出せない。組織にNOCだとバレて消されたのか、バレそうになったのを自ら清算したか…。どちらにしても捜査が打ち切られたのは彼が死亡したためだ。それが11年前の冬。彼は……」
苗字は静かに降谷の話を聞いている。
「苗字の父親だね?」
降谷が微笑むと、答えるように苗字も口元を緩めた。
「11年前に大きな事件はなかった。でもその裏側で静かに幕を引いた事件があった。母子が名前を捨てなければいけない事件があるとすれば、これだけだ」
彼ほどの捜査官なら自分の身元が割れるようなものは残していないはずだ。だが万が一に備えて、彼の妻子を守るため公安は新しい戸籍を与えた。その瞬間から彼女は苗字名前から待田ケイになった。
「正解よ。私は組織に潜入捜査していたゼロの娘。父が死んで名前を奪われて待田ケイとして生きてきた。それが事実」
肩を竦めてあっさりと肯定した。
彼女の父親の存在は警察庁の中でもトップシークレットだ。そして彼女自身のデータも今では機密情報扱いになっている。しかし彼女の口振りからはその深刻さは感じられない。
(トップシークレット…ああ、そうか)
「配属されたばかりの頃、君は閲覧権限のないデータへアクセスした。あれはお父さんのデータを見るためだったのか」
「大正解。結局見られなかった上に資料室の整理をさせられるし、降谷には胸触られるし」
「あれは事故だ」
「忘れてくれた?」
「残念だな。まだ覚えてる」
両手の掌を向けると嫌そうに眉を顰められた。更に指の関節を曲げると、それが何を示しているのか即座に察して手を叩かれた。
「平穏に生きてきたのにどうしてゼロに入ったんだって思ってる?」
手をさすっている降谷を見て笑ってはいるが、そこには僅かに影が落とされていた。
「正直最初は思ったよ。でも思い出した。君は欲しいものを手にするために警察官になった、と言っていた」
誰もいない公園で二人煙草を吹かした。
いなくなった友人へのやりきれない想いで胸が張り裂けそうだった。大声で叫んで暴れだしたい行き場のない怒りを苗字は煙草の煙と一緒に空へ放ってくれた。降谷はそのことにただ感謝していた。彼女の言葉の重さに気付きもせずに。
「君は警察官になろうとしたわけじゃない。ゼロにならなければならなかった。欲しいもの……苗字名前の名前を取り戻すために」
組織が今も存在している以上、ゼロに入る以外に方法はなかった。だから彼女は警察庁への道を進んだ。
「不思議ね。どうしてそんなにわかっちゃうのかしら。あの夜も適当に言っただけって思わなかったの?」
「あの状況で適当なことを言う人間じゃないよ。君は」
「父親が殺されて復讐のためにゼロへ入ったとも考えられたでしょう?」
「『いなくなったら意味がない人生なんて寂しすぎる』と言った人間が復讐なんてするわけない」
断言する。
あれは普段感情を抑制し、心の奥を覗かせない彼女がこぼした本音だ。降谷はあの時彼女が近しい誰かを失くしたために出た言葉だと思っていた。
違うのだ。あれは彼女自身のことだった。苗字名前だった自分を無意味にしたくないという彼女の願い。
だからこそ彼女は死んだ父親が成したことの意味を理解している。職務を全うした父親に、復讐が見当違いであることもわかっているのだろう。
「降谷は私を買い被り過ぎじゃないかしら」
「そうかな?僕が直接見てきた君自身だけどな」
「私は自分のためだけにゼロに入った。父親の仇を討つためではなく、応援してくれた母を裏切ってまで自分のエゴで動く最低な人間なの」
綺麗な顔が苦痛に歪む。
自分の名前を取り戻したい。ある日いきなり奪われた。中学生にもなっていなかった子供が。それがどうしてエゴだと言うのか。
「でも君は犠牲も払っている。待田ケイを潜入捜査に利用しているだろう?」
「そんなの犠牲じゃないわ。私は自分が持っているものを使っただけ」
苗字は首を横に振る。本心から否定しているようだった。
降谷は彼女が無事潜入捜査を終えられると聞いて安心したのだ。これで彼女が待田ケイの名前を使わなくなる、と。彼女にはその危うさがわかっていないのだろうか。
よぎった不安を降谷はごまかすように苗字に笑いかけた。
「実はまだ教えて欲しいことがある」
「何?全部教えたじゃない」
「まだだよ。全てわかったわけじゃないって言っただろう。君はいつ苗字名前に戻ろうと思ったんだ?」
降谷は立ち上がって本棚から1冊を取り出した。そして再びその中から折りたたまれた紙を抜き出した。
「普通なら額に入れて飾ってもおかしくないのに、こんなところにしまうなんて」
四つ折りで六法全書に挟まれていたのは司法試験の合格証書だった。
「予備試験まで受けたんだ。その時点で君はまだ司法の道に進む予定だった。急に方向転換した理由があるはずだ」
「そんなこと知りたいの?」
「知りたい。苗字にとって重要なことだったんだろう?」
彼女はすでに歩む道を決めていた。
合格証書が残っていなければ実力試しに受けた可能性もあると考えていた。しかし小さく畳まれて残されていた。そこには過去の彼女の気持ちも一緒に閉じ込められているかのように見えた。
「もしかしてお母さんが亡くなったことに関係しているのかな」
「何だ。わかってるんじゃない」
「わからないよ。苗字の口から聞かないと。苗字が言ってくれないと」
降谷の手の中をじっと見つめていた苗字がふわりと笑う。
その紙はもう閉じられることはなかった。
「じゃあ、もう一杯コーヒーを淹れましょうか」
苗字が空になった2つのカップを持って立ち上がる。穏やかな表情でコーヒーを注ぐ横顔を、降谷はいつまでも眺めていたいと思った。