Dream


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Episode4. 09



苗字名前はいなくなった。
名前は待田ケイとして残り僅かだった小学校を終え、中学、高校と進んだ。

「待田さん」

「ケイちゃん」

いつからかそう呼ばれることに慣れた。
最初は多少ぎこちないところもあっただろうが、容姿の良さも助けて微笑んでごまかせばやり過ごすことができた。過去の話をする場面に何度か遭遇したが、当たり障りのないやり過ごし方、肝心な部分を避ける言い回しを覚えていった。
どうすれば自然な受け答えができるか。嘘をついていないように見えるか。待田ケイとして生きる上での重要なスキルだ。
そうしていくうちに、友人になる前から隠し事がある後ろめたさも次第に薄れていった。
それが待田ケイ。それが自分。そう割り切ってしまえばいいだけだった。

「お母さんは知ってたのね。お父さんの仕事」

高校生になる前には父親がただの警察ではなく、公安警察だったのだと理解できた。
思い返せば納得できることがあった。デスクワークと言いながらも土日休みのようなこともなかった。しかも数か月の単位で家を留守にすることも多かった。ターゲットを追いかけて遠方へ出ていたか、もしくは潜入調査か何かで帰って来られない理由があったのだろう。

「夫婦だもの。何となくは…ね」

警察官という仕事をよくわかっていなかった子供ならともかく、大人であり妻である人間をごまかすことは難しかっただろう。
それでも父は妻に正直に明かすことはなかった。母も夫に問いただすこともしなかった。
だが少なくても母は夫が突然殉職する覚悟をしていたのだろう。父の死を前に混乱する名前に対し、母は驚くくらい冷静だった。
それでも名前を変えて別の人生を送ることまでは想像していなかったはずだが。

「ケイ、お父さんはこの国を守っていたのよ」

名前の濁った気持ちを察したのか母は静かに笑った。だから恨むなと言いたいのだろうか。

「……でも家族は守れなかった」

名前は気付いていた。父が殉職したあの日から、母はただの一度も『名前』とは呼ばなくなったのだ。


■ ■ ■


高校2年になり進路を決める時期になった。
それなりの人間関係は構築していたが、それでも他人と深く付き合う気持ちにはなれなかった名前は、持て余す時間を勉強に充てていた。そのおかげで成績が申し分なかったのは、良かったのか悪かったのか。

「私、弁護士になろうと思う」

三者面談前日に打ち明けると、母は複雑そうな顔をした。

「勘違いしないでね。ちゃんとした仕事に就きたいと思っただけ」

それは嘘ではなかった。資格がある職をと考えて、自分のできる可能性を鑑みて決めたことだ。決して警察官と対峙する職業だから選んだわけではない。
だが本当に違うのか、名前にもわからない。例えば名前を変えずに元のままの人生を歩んでいたら、同じ選択肢を選んだだろうか。
娘の内心の葛藤はおそらく気付かれていただろう。だが母はそれには触れずに、

「まぁ警察官になると言われるよりはマシね」

そう言って笑った。


■ ■ ■


国立大学に進んだ名前はすぐに司法試験に向けての勉強を開始した。法科大学院まで行くつもりはなかった。4年も大学に通って更に2年。遺族年金があるとはいえ、働いて生活を支える母に負担を掛けたくはなかった。

「入院?」

司法試験予備試験の結果待ちをしている時期だった。
体調が悪いと言っていたので病院に行くよう勧めたのだがなかなか首を縦に振らなかったのだ。良くなる兆候もなく、仕方なく引きずるように連れて行った病院で検査した結果、入院が決定した。

「無理するから…」

あの冬の日から女手一つで名前を育てて来た。その苦労は計り知れない。だが、この生活そのものが母に精神的な負担を掛けていたはずだ。
苗字名前として生きて来た12年。待田ケイとして生きて来た8年。しかし実際は12年と言っても赤ん坊の頃を覚えているわけもなく、苗字名前でいた記憶よりも待田ケイでいた記憶の方が多い。
だが母は違うだろう。偽りの名で生きて来たこの8年。安全と引き換えに選んだ偽りの名前と人生は、本当の意味で母に安らぎの日々を与えたのだろうか。

「大事な時期にゴメンね…」

か弱く謝罪する母を見て、名前は嫌な予感がした。そして「母もこうして覚悟を決めたのかもしれない」と胸が締め付けられた。
それでも母は頑張った。名前が司法試験を受けるまでは持ち堪えた。そして合格発表を目前にして、容体が急変し父の元へ旅立っていった。
自宅でその知らせを受けた名前は、両親ともに看取ることができなかったなと自嘲した。そしてふと家の中を見回して思ったのだ。

「そうか…私は独りになったのね」

待田ケイに親族はいない。いるのは母1人だった。
友人はいるが、その誰一人として待田ケイが苗字名前であったことを知らない。

「これで苗字名前は本当にいなくなる」

たとえその名で呼ばなくても、母は名前が名前であることを知っていた。母は名前が名前であった証人だったのだ。
しかしその存在がいなくなった今、ここにいるのは待田ケイでしかない。
この世から本当に名前がいなくなるのだと思った瞬間、恐怖が襲った。

「私は……誰……?」

自分が消失してしまう感覚になり名前は蹲り、泣いた。
その涙が母を失ったことへの涙でないことが嫌だった。



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