Episode1. 00
「珍しい顔がある」
名前が溜まった書類を片付けようと本庁に戻ると数週間顔を合わせていなかった同僚がそこにいた。
濃い肌の色に金の髪。宝石のような青い瞳はそれだけでも美しいのだが、顔全体の作りにマイナスがない。ポーカーフェイスでめったに揺らぐことのないその完璧な顔面が名前を認めて和らいだ。
「苗字も書類仕事か?」
元々外に出払っている面子が多い職場だが、今この部屋には名前とこの同僚にして同期の降谷零しかいない。それもそのはずで時刻はまさに終電が発車しようとしている。
「誰かさんのおかげで仕事が多いからね。降谷は終わったところ?」
「……いいや。もう少し残ってる」
不自然な間だ。嘘をつくのはお手の物だろうに隠す気もないらしい。
しかしそこには敢えて触れずに降谷の隣の自席に座ってPCを立ち上げた。仕事が多いという名前の言葉は本当なのだ。朝が来る前に片づけてしまいたい。降谷もそれ以上は口を開かずに手元の資料に目を落とす。
どのくらいそうしていたか。資料を整理しキーボードを叩き続けて報告書をまとめた。自分の案件がメインだが、半分近くは降谷の案件でもある。ここに降谷本人がいるのに名前がまとめている事実に腹が立ってきて文句を言おうとして顔を上げると、降谷の手元はいつの間にか資料から文庫本に変わっていた。闇の男爵の新刊ではないか。まだ名前は読めていないと言うのに。
「終わったなら帰れば?」
この同期にはあの白い愛車があるのだから終電など関係ないだろう。
名前の不機嫌を隠さない声を気にすることもなく、降谷は腰を浮かせてディスプレイを覗いてきた。
「あと30分ってところだろう?待ってるさ」
「待つ意味わかんないし」
「今日車じゃないだろ?送る」
確かに車ではない。なぜわかったかなど優秀すぎる同僚に尋ねることはしない。どうせ服装だとか靴だとかそんなところだろう。
「終わったら仮眠室行って始発で帰る予定だから」
「知ってる。でも足があるなら帰るだろう?」
「自分の足ならね」
数週間ぶりに会った多忙な同僚にわざわざ待ってもらって送らせる気は毛頭ない。それが相手からの申し出だとしてもだ。
「せっかく久しぶりに会ったのに」
「降谷に会うために本庁に戻ってきたわけじゃないし。降谷も私に会うために来たわけじゃないでしょう?」
「それは半分正解。半分不正解」
文庫本を閉じた降谷が椅子を回転させて名前へと体を向けた。愉快そうに細められた瞳がこちらを見つめている。
「誰かさんが夜に戻ってくるかもしれないと聞いたんだ」
長い指が名前の髪を絡め取る。
「本庁に来たのは仕事をするためだけど、残ったのは苗字に会うためだよ」
絡められた髪は降谷の唇に。
「そもそも苗字の仕事が多いのは僕のせいでもあるからな。手伝ってほしいと言われたら手伝うつもりだったんだけど…」
文句は言うつもりだったが手伝ってもらう発想はなかった。仕事が多いのは確かに降谷が原因だが、自分の仕事は自分の仕事だ。
「バディを引き受けてくれた君には感謝してる。あの約束も…待っていてくれてありがとう」
この状態でそんなことを言うのは反則だ。
耳が熱い。胸が締め付けられて脈がどんどん速くなっていく。
「……残ったのは仕事を手伝うため?」
ポツリと小さく呟いた言葉はしっかりと降谷の耳に届く。
僅かに目を見開くと、髪を解放した手が頬を撫でる。
「さっき言ったの聞いてたか?苗字に会うためだよ」
「いつも勝手に家に来るくせに」
「たまにはこういうのもいいだろう?」
「部屋ぐちゃぐちゃなんだけど」
「またか…」
呆れたように眉を寄せた降谷から視線を逸らす。
連絡が取れない降谷のおかげでバディである名前はこの数週間働き詰めだったのだ。自分の部屋が片付いていなくても見逃してほしい。
降谷もそれがわかっているので苦笑するに留めた。
「一緒に片づけるから泊っても?」
「朝食作ってよね」
「まぁ苗字は起き上がれないだろうし」
降谷がニヤリと口角を上げる。
幾度となく過ごした降谷との夜を思い出して逃げ腰になりかけた名前の腕ががっちりと掴まれた。立ち上がった降谷の綺麗な顔が名前を見下ろしている。
一見人のよさそうな笑顔だがその裏を知っている身としてはただ恐怖だ。
「お、お手柔らかに」
「それは難しいな。久しぶりだし」
「善処するくらい言いなさいよ…」
口ではああ言っても大切にされていることは名前自身がよくわかっている。
まだ煌々と光っているディスプレイに向き直ると、横から「そうだ、忘れてた」と違和感しかない高い声が聞こえた。本当に嘘をつく気がないらしい。
「今度は何よ」
PCから顔を離さない名前の顎がクイと持ち上げられた。
名前の視界にはこの上なく優しく微笑む降谷でいっぱいになる。
「会いたかった。名前」
唇に降ってきた熱に名前はそっと目を閉じた。