Episode3. 10
RX-7を運転する降谷の視線が名前の手元のバッグに向けられる。
「その本、もしかして工藤優作の新刊か?」
バッグからカバーのかかった本が見えていた。待合室で読もうと持ってきたものだ。まさか1冊読み終えるとは思っていなかったが。
しかしどうして工藤優作の著書だとわかったのか。
「名前の自宅の本棚に並んでるじゃないか。文庫派の君がハードカバーで揃えていたし、しかも初期の作品から全て初版だった」
「人の家の本棚を把握しないでよ…」
「君が家を散らかすからだろう?何度僕が片付けたと思ってるんだ」
「それは申し訳ございませんでした…」
降谷の言う通りだった。待田ケイではない、苗字名前の自宅には工藤優作の著書が全て本棚に収められている。それだけでなく初版であることまで確認しているのが降谷らしい。そしてそこまで調べられているのに不快感を忘れてしまっているのも名前らしい。
「不思議だと思っていたんだよ。こだわりを持って買っている割には君の口から工藤優作のファンだと聞いたことがない」
「そこまで考えたなら本人に聞けばいいのに」
名前が呆れると、降谷は困ったように眉を下げる。
「実はもう少し考えてしまったんだ。初期の著書は君がまだ子供の頃だ。いくら君が賢い子供だったからと言って10歳くらいの子供が彼の本をハードカバーで読むだろうか。少なくても僕が10歳だった頃には読んでいないな」
「10歳の降谷……」
妙な想像力が働きかけたが、チラリと寄越した降谷の目線で自重した。
「しかも初版ということは大人になって後から買ったものでもない。だからあれは誰かのものを譲り受けたんだろう」
「正解よ。あれはね、父の遺品」
さすが探偵をするだけはある。きっと名前が正解を言わなくてもそこまで推理していただろう。
「初期の作品だけだけどね。父のものは全て処分したんだけど、あれは父が亡くなる少し前に私にくれたのよ。だから私のものではあるけど、実質的には父の遺品なの」
「何でまた工藤優作の作品を?」
「さぁ?父の蔵書の中では1番子供にも読みやすいものだったからじゃないかしら」
父親の書斎には専門書がたくさん並んでいた。子供だった名前は手に取る気も起きなかった。だがその父親が珍しく好んで読んでいたのが工藤優作の作品だった。
記憶の中の父親の姿を探す。大きな手で本をめくっていた。
名前が興味を示すと、それなら名前にあげようと笑った。
「父親のことには触れられたくないのかと思ってたんだ。…あまり話題にしないから」
だから詮索せずにいたのだろうか。しかしそれは考え過ぎだと名前は首を振る。
「話ができるほど知らないだけよ。仕事人間でほとんど家にいなかったしね」
「耳が痛いな」
それは名前も同じことだ。
「そうね…父のことを全く恨んでいなかったわけじゃないわ。父が亡くなって私の人生は大きく変わってしまったし」
「本当に恨んでいたら同じ職業にはならないと思うけどな」
名前の父親は警察庁警備局警備企画課に所属する警察官だった。そして名前が中学に上がる前に殉職した。
その父親の同僚が元警備局長だ。彼は父を亡くした名前たちを影からフォローしてくれた。警察庁を退官してからは先日ようにしきりにお見合いを勧めてくるのはいただけないが。
「僕が君の立場で父親を恨んでいたら、全く別の道を選ぶよ。例えば……弁護士とか」
降谷の言葉に名前が目を見開く。
「違うか?」
こちらを見る降谷の髪が陽に透けて光っていた。眩しいと思う。どこまでも真っ直ぐなこの男が。
「……違わないわね」
確かに恨んでいたこともある。だがそれは子供で無知だったからだ。どれだけ危険な仕事に就いていたのか。家になかった父親が何を考えて職務を全うしたのか。同じ警察官として名前はすでに知っていた。
「お節介ついでにもう1つ言ってもいいか?」
「珍しく弱気ね。どうぞ」
「さっきも言ったように僕は君の部屋を数えきれない回数片付けているんだけど」
「ここで蒸し返す?」
ムッとした名前にクスリと笑って降谷は続けた。
「散らかっていたことがないんだよ、工藤優作の本だけは。買って読んだ後はしまったままなのかと思えば、度々棚から出した形跡もあるようだし。だから大切にしている本なんだと思っていたんだ」
静かに告げた降谷に、名前は何も言えなかった。
全くの無自覚だった。
名前の知らない名前を、降谷だけが知っていた。
「これは話を聞いて僕が感じたことだけど、名前はお父さんのことを知りたかったんじゃないか?だから唯一とも言える手掛かり…工藤優作の本を追ったんだ」
父が何を好きだったかなんて知らなかった。知らないまま父はいなくなった。でも彼が微笑みながら読んでいた本は手元に残っていた。
確かに初期の作品は父の蔵書だった。だが譲り受けてからは誰に言われたわけでもなく、名前が集めたのだ。父と同じように発売直後に本屋に行き、初版をハードカバーで買い続けた。
いつか父のことがわかるような気がして。
「わかるといいな。お父さんが君に残した意味を」
「意味なんてあるかしら?ただ本をくれただけなのに」
「あるんじゃないか?君のお父さんだ。意味のないことはしないだろうさ」
父親の仕事はある程度理解したつもりだ。
だが彼が父親として何を考えていたのかはわからず仕舞いだ。なぜ名前にあの本をくれたのだろうか。理由なんてなさそうで、気まぐれを起こすような人ではなかった気がする。降谷が言うように、わかる日がくるのだろうか。
「私ってファザコンなのかしら」
名前がついた溜息に、降谷が渇いた笑いを漏らす。
「父親と同じ職業の男を捕まえておいて今更か?」
「何言ってるの?降谷が何の職業かなんて関係ないじゃない」
名前が当然だとばかりに言い放つと、RX-7が急ブレーキで停止する。前のめりになった名前の身体をシートベルトが辛うじて支える。
「あっぶな…!」
文句を言おうと運転席を見ると、シートベルトを外した降谷が目前まで迫っていた。
「名前が悪い」
一言低い声が聞こえて、助手席のシートが倒される。呆然とする間もなく口内に侵入している舌に、キスされているのだと気付く。そして自らの発言を振り返り、しまったと後悔する。
すでに降谷の手は服の中で直に肌を撫で始めている。
昨夜の取り調べで寝不足なのだが、この分ではきっと寝かせてもらえそうにない。名前は覚悟を決めてキスの嵐を受け入れた。