Episode3. 03
晴天の神社は花見客で溢れかえっていた。その半分以上が花より団子だとしてもこの賑わい自体は悪いものではないと名前は思う。
「…ということです」
「わかったわ。いつもありがとう」
桜の木越しにいるのは名前の協力者だ。花見のような人混みはこういった秘密事に最適なのだ。用件が終わったところでさらさらと小風に舞う桃色の花びらに思わず目を細める。
「このまま花見でもしたい気持ちになるわね」
「はは。確かに」
そんなたわいもない会話をして協力者と別れると、神社の中をあてもなく散策する。人混みに紛れてのスリも増えるので見回りのつもりでもあった。すると視界の端で妙な動きを捉えた。
(今盗ったよね)
太った中年女性が男性の懐から財布を抜き取ったのが見えた。常習犯らしく手慣れている。今日何件目かは知らないが、これで終わりではないだろう。
後をつけて現行犯逮捕してもいいのだが、今名前は待田ケイの姿だ。警察手帳の苗字名前の写真と同一人物には見えない。むしろやり方が悪ければ自分まで窃盗の疑いがかけられそうだ。ここは一般人を装って近付くのが得策か。
「おぉー桜満開じゃー!!」
どこで仕掛けるか頃合いを見計らっていると、聞き覚えのある声が耳に入る。
「神社で花見もいいもんじゃのォ!」
「天気もいいしね!」
「まさに花見日和です!」
案の定阿笠博士と少年探偵団の子供たちだ。
(花見に来たと言えばいい。でも、一人で来たことをすんなり受け入れてくれるか…)
博士に群がる子供たちの中にコナンがいるのを確認した名前は足を止める。ここに来た理由をコナンは絶対に花見だとは思ってくれないだろう。
「スリよー!スリがいるわよ〜〜!!」
見つからないうちに帰ろうと数歩進んだ名前を呼び止めるかのようなタイミングだった。叫び声の主は先程のスリ張本人だ。掏る相手の財布の位置を確認するのに使う手口だろう。
(あれは…ジョディ捜査官?)
FBIがなぜ、と考える前にスリの女がジョディにぶつかった。このパターンは十中八九盗られているが、ジョディは気付いていないようだ。
するともう1人。ジョディの横に男が立っている。その男を見てスリの女の目が見開かれた。そしてそれは名前も同じだった。
(さっき盗られた男だわ)
名前が最初にスリを見つけた時の男だ。しかし彼は女を見ても平然としている。彼がスリにあってからたいぶ時間が経っているはずだが、彼も気付いていないのだろうか。
女を追おうとした名前を違和感が立ち止まらせた。そしてコナンたちの話が聞こえるギリギリの位置まで近付いて、彼らの死角に入る。
男はジョディと話をしているが風邪で声が出ていないようだ。
「あー、違う違う!!その彼と火傷の彼は別人で…」
「はぁ…」
「もぉいいわ!思い出したらここに連絡くれる?」
ジョディが男と話している“彼”とは誰か。ジョディは“彼”を探している口振りだ。この日本で彼女が探す人間、かつ火傷というワードが示す人間は1人しかいない。
(ジョディ捜査官に赤井秀一の話を?それにあの男、さっきはマスクをしていなかった。マスクは風邪をひいているから?風邪で声が…声…変装……すり替わり…)
ハッと名前の脳裏に閃くものがあった。なぜこれまで気付かなかったのか。
しかし後悔している間はない。ここから一刻も早く立ち去った方がいい。名前が踵を返すと、その瞬間ドンッと人にぶつかった。
「ごめんなさい!大丈夫ですか?」
名前が倒れそうになった相手を支えて謝罪する。そしてその人のお腹がふっくらと膨らんでいたので慌てて顔を覗き込む。
「ええ、大丈夫よ」
妊婦はお腹をさすって微笑んだ。そして何事もなかったかのように歩いて行った。
□ □ □「キャッ」
「うわ!すみません!」
神社を後にした名前が街中をぶらついているとまた人にぶつかった。今度はスーツを着たガタイのいい男だ。急いでいるようで名前のことを振り返りもせずに立ち去ってしまう。しかしその手にコーヒーショップの紙コップが握られていたので、悪い予感がして手元を見下ろす。
「うわ!?コーヒー!!早く洗わなきゃ」
トートバッグを握っていた袖口に茶色の染みができていた。
急いで近くの店のトイレに駆け込み、上着を脱いで袖を水道に突っ込む。何度も濯いだが茶色の染みは落ちずに残ってしまっている。
「……はぁ。ついてない」
溜息と共に本音が漏れた。
名前が濡れた袖口をめくると、そこには小さな機械が付いていた。袖を洗った時にかなり濡れたようで、精密機器としては致命的なはずだ。
「本当についてないわ。こんなものを付けられるなんて」
名前は小さなそれを摘まみ上げる。そして床に転がすとヒールで容赦なく踏みつけた。
「でも生憎、こんな手に易々と引っかかる仔猫ちゃんじゃないのよ」
□ □ □「恐ろしい男ですよ…。あの少年は…」
そう言ったバーボンを横目にベルモットは聞こえなくなったもう一つの盗聴器のことを考えた。あの後コーヒーを掛けられた彼女は、どこかのトイレで盗聴器がついた上着を洗ったらしい。大きな水音の後、通信は途絶えた。水で壊れたか、洗った拍子に落ちてしまったか。
「もう1匹の仔猫ちゃんには逃げられちゃったわね」
「もう1匹?」
「綺麗な仔猫ちゃんよ。あなたが最近お気に入りの」
バーボンの働く喫茶店に出入りをしている彼女。ベルモットは、バーボンと彼女がただの友人関係ではないだろうと踏んでいる。
「…ああ。お気に入りというほどじゃないですよ。でも彼女くらい美人なら僕が多少親しくしても不思議には思われないでしょう。僕も男なもので」
あっさりと男女の関係を認めたバーボンは顔色を変えない。コードネームを与えられて数年。彼が特定の女と関係を持ったことがなかったため探りを入れてみたが、杞憂だったようだ。
「確かにいい素材だわ。彼女、女優になる気はない?」
「……ないと思いますよ」
「きっといい女優になれるわよ」と言ったベルモットの言葉に、バーボンが密かに笑ったことは気付かれることはなかった。