Episode3. 00
終電が過ぎた時間にもかかわらず警察庁警備局警備企画課にはまだ多くの人が残っていた。それもそのはずで全員が明日の大捕物のために準備をしているのだ。
名前はその中心で計画の最終チェックをしていた。
何度も練り直したプランだ。抜けはない。…はずだ。
「うーん…」
「何だ?緊張してるのか?」
タブレットを睨んで唸る名前に先輩が声を掛ける。
「いいえ。このFポイントに1人配置したいんですけど人が足りなくて」
「うーん…確かに手薄ではあるけど、そこはBポイントとDポイントでフォローできるからな」
「そうなんです。だからこの配置なんですけど、気になるんですよね」
かと言って他の配置から人を持って来ることはできない。万全を施したいが今はこれが最善だろう。
「BポイントとDポイントの奴らによく言っておくんだな」
「はい…」
全ての計画がベストの状態で臨めるとは限らない。それは承知だ。
でも万が一BポイントとDポイントどちらも分断されたら?その確率はとても低いが0ではないのだ。
どうしてもその可能性が捨てられない名前は、胸に大きなつかえを抱えたまま作戦当日を迎えた。
□ □ □現場に到着したのはまだ深夜になる前だ。
名前にとっては見慣れた社屋。それもそのはずで、名前はこの会社に潜入し捜査をしていたのだ。この作戦の後にあの社員たちがどうなるか。考えないわけではない。しかもそれを指揮するのはここに籍を置いていた自分なのだ。
だがようやく証拠が揃い、満を持しての作戦決行だ。個人的な感情は昨日の夜に置いてきた。むしろ頭にちらつくのは納得しきれていないFポイントの配置のことだ。
最後に見落とした場所はないかとタブレットを開こうとした時、視界の端にいるはずのない人物を捉えた。
「降谷…?」
「お疲れ」
片手を上げて笑っている。
「今日はポアロのはずじゃ…」
組織の連絡がある可能性を懸念して今日の作戦の人員には含めていなかった。普段通りポアロでシフトに入っているはずだ。どうしてその彼がエプロンではなくスーツを着ているのだろうか。
「作戦プランを見させてもらったよ。ここに1人欲しいだろう?」
降谷が手にしたタブレットを指差す。長いその指が示しているのは名前がずっと危惧していたFポイントだった。
「何で……」
「その質問が『何でFポイントか』という意図なら、それは僕が君のバディだからだ。君が僕の立てた作戦を完璧に理解するのと同じさ。苗字は降谷のバディという言い方をよくされるけど、僕が君のバディだ。苗字がどう考えてこの作戦を立てたかは僕が1番理解できる」
他人の考えをこれほどまでに理解できると断言していいのだろうか。言われた名前の方が不安になるくらい降谷は確信に溢れていた。
「もう1つ、質問が『なぜ今日来たのか』という意図である場合だけど、それもやはり僕が君のバディだからだ。君がこの案件のために潜入してどのくらいだ?」
「2年半…くらいかな」
「この計画は5年はかかると言われていた。だが予定より早くケリがつきそうだ。それは間違いなく潜入捜査をしていた君の成果だ」
「……そう、かな?」
確かにこの作戦まで至れたのは名前の成果だろう。だがいきなり褒められても反応に困る。かなり間の抜けた返答になってしまった。
普段なら嫌味の1つも言いそうな降谷はただ微笑んで頷いた。
「その作戦で君がどうしても1人足りないと考えている。僕が駆け付けなくてどうする?」
名前はこの作戦の責任者だ。用意された条件下で任務を完遂するのが当然で、いきなり現れたこの男に対して何と答えるのが正解なのかわらかない。
ただ1つはっきりしていたのは、名前の心をこれほどまでに震わせることができる人間は他にいないということだ。
「ポアロは…」
「急用ができたからと抜けてきた」
「組織から連絡があったら…」
「探偵業で緊急があったとでも言っておくさ。そんなことよりももっと言うことがあるだろう?」
腰を屈めた降谷の顔は少し動けば唇が触れそうなほど近い。
「苗字。僕が欲しいか?」
青い瞳が薄暗い中でもはっきりと見える。それは真っ直ぐに名前だけを映していた。
「欲しい」
迷いのなくなった名前の言葉に降谷は不敵に笑った。
□ □ □作戦は成功した。目的だった人間は複数いたがその全てを確保することができた。全ては計算通りだ。1番の大物を捕らえたのが作戦に参加しないはずの降谷だったことを除いては。
「何で降谷がいるんだ?」
「偶然通りかかったもので」
護送車に対象を乗り込ませた降谷を見た上司が呆れた顔をする。しれっと平気な顔で言い訳をする部下に、咎めても無駄だと悟ったようだ。
「まぁ結果として確保に貢献したからな。大目に見てやる」
「ありがとうございます」
「苗字」
「はい」
当初の作戦外のことをしたのだ。叱られるのを覚悟して姿勢を正したが、掛けられた言葉は意外なものだった。
「あまり降谷を甘やかすなよ。付け上がるぞ」
それはもう手遅れなのではと口をついて出そうになった反論は何とか飲み込んだ。
「鋭意努力します」
返答を聞いた上司は「報告書は週内に提出しろよ」と非情な言葉を残して去って行った。
週内にどうやったら報告書をまとめられるか考え始めた名前の頭に、ぽんと大きな手が乗せられる。
「降谷、来てくれてありがとう」
結果として名前の憂慮していた流れになり、降谷のおかげで取り逃すことなく終えることができた。感謝してもしきれない。なのに降谷の方が嬉しそうに目を細めている。
「他でもない苗字のことだから…と言いたいところだけど、実はただ苗字にいいところを見せたいだけなんだ」
名前の手を取って歩き出した降谷にもう一度「ありがとう」と笑ってみせたかったのに、目の前が霞んでどうしてもできなかった。