Episode2. 10
夕食を終えて食器を洗っていると背後で携帯が鳴る。持ち主の降谷が表示を確認し場所を変えずに通話を始めた。
「安室です。え?はい、そうですが。なるほどマスターが。毛利先生のお役に立てるなら僕が承ります」
どうやら相手は毛利小五郎らしい。好青年そのものの対応だ。
「明後日?ええ、大丈夫です。それでは直接向かいますので住所を教えていただけますか?」
名前が近くにあったメモ帳とペンを渡す。降谷はこちらを見ることなく電話から聞こえてくる住所を書き取る。スラスラと文字が並んでいくのを眺めると伊豆高原であることがわかった。
「ええ、それでは失礼します」
通話を切ると名前に向き直る。
「コレありがとう」
1枚破り取ったメモ帳とペンが返される。
「毛利さんからってことは依頼?伊豆高原なんて別荘地じゃない」
「依頼といえば依頼かな。毛利先生直々のご指名だ」
「その毛利先生っていうのがまず胡散臭いのよね…。で、何しに行くの?安室君」
「テニスだよ」
テニス。想像もしていなかった方向にポカンとする。確かに別荘地だからテニスコートもあるだろう。しかしなぜ安室を指名するのだろうか。
疑問は顔に出ていたらしく降谷に苦笑される。
「知らなかったか?これでも僕はテニスが得意なんだ」
初耳だ。ボクシングが得意なことは知っていたが、テニスも得意とは。ボクシングは公安の仕事でその力量を見ることはあるが、テニスはない。今後もないだろう。
「園子お嬢様がテニスの特訓をしたいそうだよ」
なるほどつながった。鈴木財閥なら伊豆高原に別荘の1つや2つ所有している。テニスを教えてくれる人間を探していたところ安室に白羽の矢がたったということか。
「ボクシングにギターに料理にテニス。多才なことで」
「君もメイクが得意じゃないか」
「特技が1つしかなくてごめんね」
「メイクと言ってもヘアスタイリングやコーディネートも含んでいるから1つとは言い切れないと思うけどな」
若干苦しいフォローを受け取る。とは言っても降谷が多すぎるのだ。普通人間なら特技が1つあれば上等なはずだ。そう思うことで自分を納得させようとしたところで、降谷が少し意地の悪い顔をして笑った。
「あと1つあるだろう?偽名を見抜けるって立派な特技が」
それを持ち出すのかと名前が降谷を睨む。
「君は勘だというが、あれは立派な特殊技能だ。おそらく名前を口にする時の視線や間の開け方、声のトーンで判断をしているんだろうな。それを苗字は自分の経験から体感で総合的に判断しているんだよ」
先日別の人間から同じことを指摘されたのを思い出す。彼は勘そのものが経験値に基づくものだと語っていた。要は2人とも名前が偽名を見抜くのは、名前自身がそうしてきたからだと言いたいのだ。
「苗字は頭がいいんだから説明できても良さそうなんだが…。経験から得たものは得てしてそういうものなのかもしれないな」
名前としては『身に染みた』という表現が1番近い。続けていくうちに得たものという意味では確かに経験値ではある。それを本人が望んでいたかは別として。
名前が押し黙ってしまうと、降谷がニコリと微笑む。
「ところで名前はテニスの経験は?」
「体育の授業で軟式に触ったくらいだけど」
元々運動神経はいいので少し習えば素人趣味くらいにはなったかもしれない。降谷もそう思ったのだろう。
「何なら一緒に来て練習してみたらどうだ?」
「嫌だよ!蘭ちゃんと園子ちゃんの生脚と並ぶとか公開処刑だよ!」
「そこまで言うか?名前の脚綺麗だぞ」
「10代となんて無理!こっちはアラサーなんだよ!?10代って角曲がる前じゃん!」
「わかった。わかったから…」
あまりの剣幕に珍しく降谷がたじろぐ。
「降谷が余計なこと言うから…。洗い物途中なのに」
そう言ってキッチンに移動しようとした腕が掴まれる。
「…生脚、僕が見る分には構わないんだよな」
「は?」
振り返ると熱を持ち始めた降谷の目が名前を見ていた。どこでスイッチが入ったのか。
「他のところも全部見てるけどな」
するすると手が腰に回る。洗い物はと言いかけた口は塞がれ、背中は硬い床に押し付けられた。気付けばすでにブラのホックがはずされている。服をめくり上げられ双丘が露わになる。
「良い眺めだな」
「散々見てるくせに」
「何度見てもそそられるよ」
それが会話らしい言葉の最後だった。後はもう息遣いと嬌声だけが部屋に響いていた。
□ □ □「いや、俄然、興味が湧いてきましたよ…。眠りの小五郎という探偵にね…」
伊豆高原からの帰路、ベルモットからの電話を終えた降谷は家に着いてようやく息をついた。
「道理でご執心なわけだな」
それは先程までの電話の相手に対してでもあり、今も自分の代わりに職務についているだろう彼女に対してでもあった。
「江戸川コナン、か」
ずっと疑問だった。なぜ苗字がポアロに通っているのか。それがようやくわかった。
目的はポアロではなかったのだ。ポアロはただの手段だった。江戸川コナンに近づくための。
「いつ気付いたのかわからないが、さすがだな」
飄々としていて自己顕示欲も薄いためわかりにくいが、彼女は極めて優秀だ。
少し前に特技が少ないなどと言っていたがとんでもない。散りばめられた事実の組み上げ方は舌を巻くし、嘘をつかず核心に触れさせない話し方はごく自然すぎて降谷が気づけないことすらある。公安としての特技に非常に長けてる。
そんなことを言っても彼女は決して喜ばないので口にはしないが。
「特技というよりも“生きる術”だったんだろうな」
彼女の生きてきたこれまでを思うと、取り返せないものが多すぎた。自分の無力さに嫌気がさしそうになるくらいだ。
「会いたいな」
時計を見れば日付が変わっていた。今はどこにいるのだろうか。本庁で唸っているのか、家でシャワーを浴びているのか。
数日前会って抱き潰したのにまた彼女を求めている。自分でも呆れてしまうが、どう足掻いても彼女に対する想いは止められそうにない。
その衝動のまま携帯を持ち上げる。
「夜分すまない」
謝罪は形式的なものだ。
降谷はワンコールで通話に変わったことに口元の笑みを抑えることはできなかった。