Episode2. 04
どうやら賄いの時間に被ってしまったらしい。ポアロに入った瞬間目に入ったのは安室がカウンターでパスタを食べ終えた姿だった。
「ケイさん!珍しですね。この時間帯に来るの」
店内を見れば名前の他に客はいない。つかの間の休憩にもかかわらず梓は笑顔で出迎えてくれた。手招きする安室に近づけば隣の席を指差すので仕方なくそこへ座る。
「明日からまた仕事が忙しくなるから来ておこうと思って」
横目で隣を窺うが何食わぬ顔で食後のコーヒーを楽しんでいる。
この男が明日からしばらくバーボンとして動く。風見から連絡があった通りだ。だから公安の仕事は全て名前が抱えることになる。忙しくなるのは必然だ。
常連客である待田ケイが予告なくポアロに来なくなると梓やマスターが心配する。人のいいことだと呆れてしまうが、気分が悪いことではない。だから今回のように先がわかっている場合には顔を見せることにしているのだ。
まさか今日安室が出勤しているとは思わなかったが。
「ケイさんごめんなさい。ちょうどアイスコーヒーが切れちゃって。ホットでもいいですか?」
今日は少し汗ばむ陽気だ。アイスコーヒーをと思ってきたのだがそれならば仕方ない。じゃあホットでと言いかけたところでふと思い立った。
「アイスティーにしようかな」
名前の注文に、梓だけでなく安室までポカンと口を開けている。
「え?何?」
「だってコーヒー党のケイさんがアイスティーなんて…。まさか妊娠…?」
「ブッッ」
安室が噴き出しかけたコーヒーを辛うじて口元で押し留めた。自分に出されたはずのおしぼりを渡すと黙って受け取る。
「そんなわけないでしょう?第一、紅茶にもカフェインは含まれてるわよ」
「あはは。そうでしたね」
梓があっけらかんと笑う。ちょっとした揶揄いのつもりだったのだろう。隣で口を拭いているこの男はそうは思わなかったようだが。
「どうして今日は紅茶なんですか?ミルクティーならわかるんですけど」
梓が言う通り名前はコーヒー党だ。そして仕事が落ち着いてポアロに行った時に頼むのは決まってミルクティー。アイスティーの注文が驚かれても無理はない。
「最近美味しい紅茶を飲む機会があってね。紅茶も飲んでみようかなと思ったのよ」
「ケイさんが言うなら美味しい紅茶だったんでしょうね。負けないように淹れますね」
腕まくりをした梓がグラスを出して準備を始める。
チラリと安室を見ると額に手を当てて俯いてしまっていた。
「何でそんなに焦るのよ」
「いや……うん、そうだよな…」
どうにもはっきりしない態度に数日前の記憶を探る。…が、途中から覚えていない。何度達したか数えることは諦めたのだが、最後は完全に飛んでしまっていた。
「難しい顔して何考えてるんですか?」
トレイを持った梓が不思議そうに首を傾げる。名前の前にコトリと薄茶色が入ったグラスが置かれた。ストローから一口吸い上げると絶妙な甘さと渋みが口内に広がった。
「美味しい!」
「ありがとうございます」
ポアロのメニューにはずれはないのだと誇らしげな梓が微笑ましい。その穏やかな気分を台無しにしているのが横で苦悩している安室だ。
「ちょっと安室君。表に出ようか?梓ちゃん、ちょっと借りるね」
梓の返答の前にはもう立ち上がっていた。脇の路地なら人目に付きにくいだろうと無言の安室を引っ張って外へ出る。仁王立ちで見上げる名前の視線から逃れるように安室が明後日の方を向く。
「さぁ白状しなさい」
これでは尋問だが自分も警察官なのだからいいだろう。相手も警察官だが。
「黙秘権を行使するのは」
「却下。こちらから質問するから答えて。気を失ってる間に私の体に触れた?」
「触れない方が無理だろう。セックスしてたんだから」
「言い方を変えるわ。意図的に触った?」
「触った」
先程珍しく動揺していたのが嘘のように泰然としている。しかし一向に視線が交差しないのだ。だから彼にとって何が後ろめたいことかと考えて、ある可能性に至る。
「もしかして入れ…」
「それは我慢した」
「“それは”…ってことは別のことはしたのね」
ジロリと睨みつけるとやはり目を合わせずに頬を掻いている。
それは我慢した。我慢しなかったことがあるのだ。
「まさか触りながら一人で…」
「ストップ」
言いかけた口が安室の手で塞がれる。尋問をすることは少ないが警察官の端くれだ。もごもごと不明瞭ながらも最後の一押しは欠かさない。
「自白と捉えても?」
「結構だ」
ようやく得た答えにため息をつく。
一人でどこまでどうしたかでは問わないが、それなりの罪悪感(背徳感かもしれない)が生まれるくらいには何かされたのだろう。そうでなければあの動揺ぶりが説明できない。
「あれくらいで焦っちゃって。ポーカーフェイスが聞いて呆れるわね」
「ここまでバレたら同じだからな。何をしたか1から10まで教えてもいいぞ」
久しぶりに交差したブルーの瞳は名前の心の揺らぎを楽しんでいた。問い詰められていたのは安室の方だと言うのに。顔を見る限りこの数分の間に状況も気持ちも整理してしまったようだ。
「梓ちゃんが怪しむからお店に戻るわ」
「もう十分怪しまれてると思うぞ」
「言い訳頼むわよ、安室君」
名前が店に戻ろうと踏み出すが安室は動かない。なぜか名前をじっと見つめている。
「…何?」
「やっぱりいいな。その『安室君』の呼び方」
うんうんと頷いている。名前が責めないことと安室が反省をしないことは別なのだが、もう一度彼に詰め寄ったところで効果があるとは思えない。
「さっさと飲み終えて本庁行こ…」
「そうだ。美味しい紅茶ってどこで飲んだんだ?」
名前が踵を返そうとした肩を掴まれ止められる。どうしてそんなことを聞くのかと表情だけで返せば、少しむくれたように呟いた。
「気になるんだよ。名前の好みを知っているのは僕だけなのに」
要は悔しいのか。可愛く言えば嫉妬か。余計に教えられないではないか。
「人の身体で勝手にする人には教えてあげない」
そう言ってしまえばもう安室に反論の術はない。少しは仕返しできただろうか。ようやく名前はポアロのドアを開けた。