Episode2. 03
翡翠色の瞳が鋭く名前を射抜く。しかしそれに怯むほど名前の踏んだ場数は少なくない。
「誰かという質問であれば私は『待田ケイです』と答えます」
名前が告げると、沖矢は顎に手を添えてもっともらしく頷いた。
「なるほど。この場合『あなたは何者ですか』と問わねばならなかったのですね」
「それなら『一般人です』と返されると思いませんか」
「思いませんね。あなたはここまでの話で基本的に嘘をついていない。それは私の信用を得るためでもあるのでしょうが、実はもう一つの側面があると思っています」
先程まで反論していた名前が口を噤んだので、沖矢は先を続ける。
「詐欺師などの手口ですが、嘘は1番騙したいことだけ…他は嘘をつかないことで相手を信じ込ませるものがあります」
「私は詐欺師じゃないです…」
「ここで重要なのはどうしても突き通したい嘘があるということです。真実の中に隠された唯一の嘘。あなたがそこまでして守りたい嘘は何なのでしょう?」
躱しても躱してもじわじわと相手を追い詰めていく。背中に嫌な汗が流れていくのがわかる。油断するとこちらの塗り固めた壁にヒビが入ってしまうだろう。さすがはFBIと舌を巻く。
名前はほんの一瞬だけ目を閉じる。
(でもこれはトラップ)
確信があるかのように言っている。
だがその証拠はないと相手も認めている。名前がボロを出したわけでもない。だからこそトラップをかけて足がかりを作ろうとしている。一つずつ事実を並べていけばわかることだ。
目を開ければ、もうヒヤリとする汗もない。ただ相手を冷静に見る自分がいるだけだった。
「守りたかったら話すはずないじゃないですか。私、普段からこういう類の言及に慣れているので耐性があるんです。はっきり言って無駄です」
ニコリと微笑むと、沖矢の鋭かった視線がふっと緩んだ。
「“彼”はしつこそうだ」
「めちゃくちゃしつこいです」
顔が心底嫌そうに歪んだのだろう。沖矢はそれ以上深追いするのを諦めたようだ。クスリと笑って立ち上がる。
「さて、もう一杯お茶はいかがですか」
「いただきます」
「あなたのそういう肝が据わったところは大いに好感が持てますね」
「それ、絶対にあの人に言わないでくださいね」
「おや。彼はやきもち焼きですか」
「餅を焼くどころの話じゃなくなるので嫌なんです」
堪らずに声を出して笑い始めた沖矢をどうすればいいのか。名前がこの工藤邸に来て何よりも困惑した出来事だった。
□ □ □殺伐とした押し問答が終了すれば、純粋にお茶を楽しむ沖矢と名前がいた。
コーヒー党の名前は沖矢が語る紅茶の知識を感心して聞き入っていた。沖矢もそれに乗じてあれこれと茶葉を出してくる。そして次に来訪した際にはこれを飲んでみたらどうかという結論に至った。
これではただのお茶友達だなと苦笑するが、相手はあくまで沖矢昴だ。名前はその正体を知らないことになっているのだから構わないだろうと開き直ることにした。
「…帰る前に…1つ聞いていいですか?」
工藤邸を出る直前、沖矢を振り返って尋ねる。
「あなたはバーボンが誰かを知っているのにあの子に伝えていませんよね?なぜですか?」
ライというコードネームの男の話は聞いていた。もちろんFBIのノックだったことも。諸星大と偽って隠していた本当の名も。
それならば逆も然りだ。
ポアロで働いている彼がバーボンだとわからないはずがないし、毛利小五郎の弟子になったことをただの偶然だと思えるはずがない。
コナンがバーボンのコードネームにどこまで知識があるのかわからない。だが警戒するように促すこともできたはずだ。しかし今のコナンの様子からはその正体を知っているとは思えない。
「私が言わなくてもあの子はまもなくその真実に辿り着くでしょう。それに、あなたも彼に全てを話しているわけではない」
江戸川コナン。
沖矢昴。
彼が欲しいに違いない情報を名前は持っていながら伝えていない。
「情報は私たちの命綱です。そう易々と口にするものではない。それが味方であっても」
「同感です」
素直に首肯すると沖矢の目が愉快そうに弧を描く。
「本当にあなたが何者なのか興味深いですね」
「コナン君にも言ってありますが、証拠を揃えてください。それじゃないと認めません」
「おや。コナン君にも疑われているんですか?」
あれは相談もなしに勝手に設定を決められたせいであって、名前のせいではない。しかしその言い訳をしても意味はないだろう。
「そうだ。楽しい時間の御礼に一つだけ情報を差し上げましょう」
沖矢は身を屈めて名前の耳元で囁いた。
「ベルツリー急行だ」
沖矢の声であるはずなのにそれはまるで別人のような口調だった。驚いて見上げると、相変わらずの沖矢昴の顔があった。
「あなたに何をしろと言うわけではありません。しかし何かが起こります。あなたならきっと散りばめられた事実から真実に辿り着けるはずです」
何をしろと言わないと言っておきながら、真実に辿り着けと言わんばかりではないか。
辿り着いた先に名前が何を選択するのか。それが委ねられたということか。
「また来てくださいね」
「ええ、近いうちに伺うことになりそうです」
名前はもう振り返らずに工藤邸を後にした。