Episode2. 01
それが警察庁のゼロの部屋や降谷の車の中で放たれた言葉であればここまで低い声は出なかっただろう。
「苗字はハッキングなんかしないよな」
「は?何の話?」
ベッドの中でまだ熱が冷めきらない身体のまま、名前の髪を指でクルクルと巻きつけながら降谷が思考の海を泳ぎ始めた。
性欲が落ち着いたので思考がクリアになるのは百歩譲ってわからないでもないが、今しがた抱いた相手にするピロートークにはふさわしくない。
「…まさかとは思うけど毛利探偵事務所のパソコン?」
しかしその話に乗ってしまうのだから自分も大概だと自覚している。
そもそも名前が知る降谷零は若干デリカシーに欠けるところがあるのだが、安室透の姿しか知らない人間には到底理解してもらえそうにないのが悔しい。
非難めいた視線を混ぜて降谷を見るが、このくらいで動じるわけがない。
「ああ。僕の他に誰かが見ていた」
ということは降谷が小五郎のパソコンを覗き見していたこともその誰かに露見しているわけだ。しかし通報される騒ぎにはならなかった。気付かなかったわけではあるまい。あえて見逃されたと考えるのが妥当だ。
「それが私だと?」
「いや、君はもう毛利小五郎を疑っていないから違うだろうな」
「それなら聞かないでよ。…ハッキングは置いておくとして、毛利さんのパソコンから何か出た?」
「パソコンそのものには何もなかったな」
引っ掛かる言い方だ。
恐らくそのパソコンが受信した外部データに降谷の気にかかるものがあったと見ていい。
(推理に夢中になったコナンくんがうっかりしたか、探偵団の誰かが余計なことをしたか…)
送信した人間はこのどちらかの可能性が高い。しかし問題は誰が送ったかではない。降谷は今回バーボンとして行動したはずだ。バーボンが何か情報を掴んだ。それは小さな探偵にとって望ましいこととは限らない。
そしてもう1つ。バーボンの他に毛利小五郎のパソコンを見ていた誰か。その誰かはパソコンを覗き見しているのが降谷もしくはバーボンだということを知っていたのではないだろうか。だから気付いていながら見逃した。
実は名前には心当たりがないわけではない。ただこれまでは確かめることをあえて避けていた。しかしバーボンが動くとなればそれも潮時かもしれない。
「あまり気が進まないなぁ」
「は?」
険のある声音に我に返ると、いつの間にか降谷が再び名前を組み敷いていた。厚い胸板が目の前に迫っている。
「気が進まない?」
「あー違…ってか降谷さっきまで仕事モードだったよね?」
「だったな」
「何で急にそっちに切り替わってるの?」
「目の前で名前が僕以外のことを考え始めたからだろ」
自分から仕事の話を持ち込んでおいて名前の思考が降谷から逸れたらこれだ。
自分勝手な男だと呆れる。でもそれを嬉しく思う自分もまた勝手な女だ。
名前の頬を一撫でした降谷が首元に顔を埋めると、チクリと小さな痛みが走る。
黙って何も言わない名前を、頭を持ち上げた降谷が不思議そうに見つめた。
「痕残すなって言わないのか?」
確かに普段なら抗議するところだ。だがこれからしばらくの間、降谷はバーボンとして動くのだろう。
「零の痕、残して行ってよ」
降谷零の印を刻んで欲しい。安室透でもバーボンでもない、降谷零がいるという証だ。
降谷が切なく笑って再び首元に顔を埋めると、1つまた1つ赤い花が咲いていった。
□ □ □その電話は名前が目的地に向かう途中でかかってきた。
『降谷さんがしばらく潜るそうなので定期連絡は貴方にと』
電話越しでも生真面目な眼鏡の姿が目に浮かぶ。
「はいはい、どーぞ。地下でも海でも潜ってください。降谷がいなくても何も問題ないです!」
『そんなことを言えるのは苗字さんだけですよ』
呆れつつもどこか笑いを含んだ風見の声に名前も表情を崩して通話を切る。
名前の予想通り、降谷が組織の任務で連絡が取れなくなくと言ってきたのはあの夜のことだ。だからこそ名前は意を決して行動しているわけだ。
「大きい…」
目的地に到着した名前が見上げたのは一般住宅とは言い難い建物だ。洋館と言っていいそこはある有名推理作家の自宅だ。数年前から家主とその奥方は海外を拠点としているため、高校生の息子が一人で暮らししている…はずだったが、その息子も現在行方不明ということになっている。
それであれば空き家となっていると思いきや、今ここに住んでいるのは血縁者でもない男なのだ。
名前がインターフォンを押そうと腕を上げた瞬間、ガチャリと玄関が開いた。
「何か御用ですか」
細い目に眼鏡の長身。見るからに温和そうなこの男が今の住人だ。
名前は『沖矢昴』。
名前はあることを確かめたくてここに足を運んだ。
「初めまして。待田ケイと言います」
この名を名乗る時にこれほど緊張したのはどれくらいぶりだろう。
名前は微笑んでその人に対峙した。