2人が結婚して子供が登場する話(長編終了後)
降谷景(けい)は悩んでいた。
原因はローテーブルに置かれた一枚の紙。腕組みをして睨んでも白紙であることに変化はない。志望校の調査票が配られたのは一週間前。これまでのらりくらりと考えずに逃げてきたが腹を決めなければならない。なぜなら提出期限が明日に迫っているからだ。
「志望校? 好きに決めていいわよ?」
珍しく早く帰宅した母親に相談してみればあっさりとした答えだ。とは言っても予想はしていたから驚きはしない。それでも実際に言われるとそれでいいのだろうかと困惑する。
「もう近くの高校でいいかなぁ」
「さすがにもう少し真剣に決めてよ……?」
キッチンで苦笑する母は友人たちから美人だと羨ましがられるが、授業参観などの学校行事の度に注目を集めるので正直辟易している。別に母が嫌いなわけではないが、もうべったりの年齢でもない。これが思春期というやつかもしれない。
そんな母は仕事に行く時はアップにしている長い黒髪を解くと、キッチンに入って行く。「夕飯作るの手伝ってよ」という言葉を無視してテレビのリモコンに手を伸ばした時、玄関が開く音がした。
「ただいま」
よく響くテノールが聞こえて、スーツ姿の男がリビングに入ってきた。
長身に褐色の肌。金の髪と青い瞳。子供の頃はその明るい髪色に憧れたこともあるが、今では母親の黒髪が遺伝してくれてよかったと心底思う。そしてこんな派手な容姿の男が警察官であり、更に全国の警察を束ねる警察庁の中でも上から数えた方が早い地位にいるというのだから驚きだ。
「零! おかえりなさい!」
振り返った母は満面の笑みだ。
「名前もお疲れ様」
父は真っ直ぐにキッチンへ向かい妻を抱き締める。横目でそれを確認した後は視線をテーブルの上へと戻した。この家に生まれて一四年だ。背後で静かになった両親が何をしているかなんてわかりきっている。年頃の息子がいるのだから遠慮してほしいものだ。
「零も早く上がれたのね」
「ああ。名前も明日は休みだったよな? 僕も休みが取れたからデートしよう」
「本当!?」
目を輝かせた母が父の首に抱き着いた。すかさず頬に口付ける父に溜め息が漏れる。そして耳聡い父はそれを聞き逃さない。
「志望校調査票?」
「うわっ!?」
気配もなく後ろから腕が伸びてきて、テーブルに置かれた白紙を掴む。三秒経ってから青い瞳が瞬く。
「提出期限が明日じゃないか。悩んでるのか?」
「悩んでるって言うか……特にここって希望がないから困ってるって言うか……」
クラスメイトたちの会話からはそれなりに志望校を決めているのが窺えた。スポーツ推薦を選ぶ者、音楽専攻に絞り込む者、進学率に重点を置く者、それぞれ『決め手』を持っている。だが自分にはそれがない。
「近くの高校でいいかなって思ってたところ」
「ちゃんと考えての結論ならそれでも構わないが……さすがにもう少し真剣に決めた方がいいぞ」
夫婦揃って同じ釘を刺してくる。いつもそうなのだ。
父親と母親で言ってくることが違うのだと腹を立てる友人たちを見たことがある。しかしこの降谷家において夫婦の意見がすれ違うことは起き得なかった。正確には全てにおいて同じというわけではないが、それは昼食のメニューだったり見たいテレビだったりと本当に些細なことで、最終的にはどちらかが譲って解決することばかりだった。
そもそも夫婦喧嘩という夫婦喧嘩を見たことがない。
「真剣に……。例えば将来何になりたいかとか?」
周囲の大人を思い浮かべる。
両親は警察官僚。有名な探偵の知り合いが何人かいるが、彼らは自分が小さい頃からの遊び相手だ。世界的に有名な推理小説家と元大女優の夫婦に至ってはオムツを替えてもらっていたらしい。FBI捜査官が自宅を訪ねて来た時は両親が何かしでかしたのかと焦ったが、母のお茶友達だと聞いて目玉が飛び出るかと思った。ちなみに父は終始不機嫌だった。
とにかく育った環境が特殊過ぎた。
自分が所謂サラリーマンになる姿が想像できない。
「兄さんは東都大が第一希望なんだよね?」
「そう言ってたな」
三つ上の兄は優秀だから東都大を目指すのも納得だ。特に劣等感もないが自分は兄ほど真面目ではない。
「やっぱり警察官になるのかな」
「弁護士だよ」
高校の制服を着た兄がリビングに顔を出す。
父親譲りの明るい髪に色素の薄い瞳。小さい頃は揶揄われることも多かったようだが、今では完全なモテ要素だ。年々バレンタインのチョコの量がえげつなくなっている。兄曰く、母に教えてもらった円滑な対人関係を築くコツが成し得たものだそうだ。
父と並んだ兄は色合いこそそっくりだが、顔立ちはどちらかと言えば母親似だ。色合いが母親で、顔立ちが父親似の自分とは真逆だから遺伝子の謎だ。
「おかえり」
「ただいま。父さんも母さんも揃って早いんだね。……ああ、これか」
父の手にある調査票を覗き込んだ兄が先程までの会話を理解して頷いた。
「兄さんは弁護士になりたいの?」
「そうだよ」
去年あたりから兄が妃法律事務所へ頻繁に出入りしていたのを思い出す。あれは英理に相談していたのだ。さすがというべきか。しっかりと先を見据えている。だから難しいだろう司法試験だってこの兄なら合格する未来しか見えない。
(あれ? でも弁護士って……)
降谷家では子供の意志が優先される。それは尊重と言うよりも『自分で決める』ことに重きを置いている節がある。最近実感しているがこの『自分で決める』ことは子供の好きにさせることとイコールではない。自分で決めたことには必ず責任が伴うのだ。
これまで自分や兄の選択にほとんど反対をしてこなかった両親だが、この場合どうなのだろうか。
警察の上層部にいる者の息子が弁護士になるのは好ましくないのではないか。
「弁護士って警察と逆の立場じゃないの?」
心配する景に父が口角を上げる。
「そんなことはないさ。警察も弁護士も人を助ける仕事だよ」
こういうところだ。自分の置かれた立場もあるはずだが、それすら些末であると言ってしまえる。父の計り知れない器の大きさに反抗する気も失せてしまうのだ。
「弁護士かぁ」
顎に手を当てた父が肩を揺らして笑っている。
「在学中に予備試験を受けて司法試験まで合格してみたらどうだ?」
「は!? 無茶言うなよ」
父の気まぐれな発言に兄が眉を顰める。どのくらい無茶なことかはわからないが、兄の反応を見るに相当なものなのだろう。
「無茶かもしれないが、不可能じゃないだろ」
そう言って父が視線を向けたのは兄ではなく母だ。
なぜだろうかと首を傾げて、ふと思い出す。もう滅多に入ることもなくなった両親の書斎を小さな頃は遊び場にしていた。並べられた本が面白くて、棚から出してバラバラにしてはよく叱られたものだ。ある日、たくさんあった蔵書の中にひと際分厚い本を見つけた。景が抜き取ろうとしたのを制するようにそれを手に取った母が大事そうに胸に抱えて言った。
『これは宝物だからイタズラしちゃダメよ』
あれは六法全書ではなかったか。
キッチンをチラリと見ると、それに気づいた母が少し目を見開いた後、人差し指を唇に当てて微笑んだ。
「はは……」
出てきたのは乾いた笑いだ。いつかきっちり話を聞かなくてはならないようだ。
「やりたい仕事なんてわからないなぁ」
「景はまだ中学生なんだからゆっくり決めていいんだ」
「父さんはいつ警察官になりたいって思ったの?」
「父さんは……小学生の頃、かな……?」
ゆっくり決めていいと言ってこれだ。まるで説得力がない。この父がまさか大学生になるまで進路を決めていなかったなんてことは有り得ないだろうが。
そう言えばあまりこういった話をしたことはなかったかもしれない。どうして警察官だったのだろうか。
「警察官になってよかった?」
息子からの問いに父は腕を組む。窓の外を見つめて静かに話し始めた。
「……どうだろうな。正直、良いことばかりではないな。悲しいことも悔しいこともたくさんある。でもそれは警察官に限ったことではないよ」
父の書斎のデスクに飾られている写真がある。若い父と一緒に笑っている四人の警察官たち。父と母は毎年彼らの墓参りを欠かさない。
「でも父さんと母さんは職場結婚だろ? 警察官にならなかったら出会えなかったんじゃない?」
場の空気が重くなりそうでわざと茶化すようなことを言ってしまった。もちろん父は察しているだろうが、敢えて触れずに頷いた。
「そうだな。名前が幸せなら、僕の選択は間違っていなかったんだろうな」
「私は幸せよ」
かぶせるように母が言った。
「私は零と一緒だから幸せなのよ」
勢いよく飛びついてきた妻を抱きとめると、愛おしいという感情を隠すことなく目を細める。胸に顔を埋める妻の左手を持ち上げ、そこにはめられたシンプルな結婚指輪にキスを落とす。
「名前。好きだよ。愛してる」
「私も愛してる」
顔を上げた母の唇に父のものが重なった。
「いい加減に子供の前でやめてほしいんだけど! 毎日好き好き言ってて恥ずかしくないの?」
「言えなかった分がまだ言い切れてないんだよ」
妻を抱きしめたまま微笑む。
「全然足りないんだ」
自分の両親が当然のようにハグやキスをするのを見て育った。いつからかそれが一般的ではないと知り、両親をよく知る大人たちに愚痴ったことがある。しかし揃いも揃って『良かった』と安心したような顔をするのだ。日頃から父の無茶を窘める小五郎ですら『好きにさせてやれ』と言う始末で、父の長年の部下である風見などは涙ぐんでしまったほどだ。
「もう夕食の準備始めちゃったかな?」
「まだ野菜を切ってるところだけど」
「よし。途中になってる野菜は冷凍しておけばいいな。僕がやっておくから名前は自分の支度をしてくれ。今からデートに行こう。泊りになるから明日の服も準備して」
「は!? オレたち明日も学校なんだけど!」
確かにこの二人の休みが重なることは少ないし、ましてや翌日も休みという日の夕方から一緒にいられることなど奇跡に近い。母が喜ぶのも理解できるが、今日は平日ど真ん中だ。
「阿笠博士のところに行けばいいじゃないか」
「今から? 博士だっていきなり行ったら迷惑だろ」
「諦めろよ。母さんのことで父さんが譲るわけないだろ」
肩を叩いてくる兄は、自分より三年長く両親を見ている分達観している。
軽やかに母が階段を上がっていく音がする。鼻歌も聞こえて上機嫌だ。息子が抗議していることなんて全く気にしていない。
「父さん。今日、母さんが早く上がれたのって偶然?」
キッチンへ向かおうとした父の足が止まる。ゆっくり振り返った父が兄に向けたのはニコリと綺麗な笑顔だ。
「偶然だよ。今日たまたま名前の部署に顔を出したら会えなくて『ここでもすれ違いか』って萎れた顔はしたけど」
「やっぱり父さんが仕向けたんじゃないか」
呆れて溜め息をつく兄を、三日月型の青い目が見つめる。
「どうしてそう思った?」
「出来過ぎてるんだよ。二人ともいつも休みの前日は遅くなるじゃないか。実際、母さんは今朝『帰りは遅くなる』と言って出て行った。それが早く上がれたのは周りの人が協力して帰らせてくれたからだと思う」
「……それだけか?」
「まだ言わせたいの? それなら言うけど、母さんが同僚たちの変化に気づかないはずはない。父さんの一言がきっかけになったのを知ったはずだ。景、その次は?」
いきなり兄から投げられたボールを慌ててキャッチする。
「えーと、父さんが母さんを早く帰らせようとしているのはわかったと思う。理由は……自分が早上がりできそうだから合わせてほしかった?」
「景は甘いな。父さんの母さんへの愛情の重さをわかってない。逆だよ」
「逆?」
「明日は二人とも休みが重なってる。それなら今夜からデートがしたい。だから母さんの早上がりを仕向けて自分もそれに合わせたんだろう? 何が何でも今夜からデートがしたくて」
唖然とする景に構わず兄は続ける。
「もう阿笠博士には連絡がついてるんだろう? 俺たちが泊まりに行くって」
返ってきたのは口元だけの笑みだ。景は閃くと同時に呟いていた。
「博士に連絡したのって母さん……?」
夫が早上がりを誘導したことから、泊りがけのデートを希望していることまで読んで息子たちの預け先を確保していたということか。
言葉一つでここまで把握できるのであれば、この夫婦に意見の相違がないはずだ。
頭を抱えた景の髪を父がぐしゃぐしゃと掻き回す。
「それにしても名推理じゃないか。さすが僕たちの息子だな」
白い歯を見せる父は無邪気な子供のようだった。なぜだかそれがとても嬉しくて、景は髪を整えながら赤くなった耳がバレなければいいなと思っていた。
□ □ □二十分程で化粧を直してデート用の服に着替え、泊り支度のバックを手にした母が下りて来た。
キッチンは父によって綺麗に片づけられている。今日の夕食に使われるはずだった野菜は冷凍されるどころか、手早く調理されて明日の夕飯として冷蔵庫に入れられた。
兄は明日の授業の準備をするからと自室へ行った。
自分もそろそろ支度をしなければならないが、問題はこの白紙のままの調査票だ。
(なりたい職業もやりたい勉強も今のところはない。……けど)
好きだと言う感情を隠すことなく表現できる人間への憧れはある。
自分の好意が何に向けられるのかはわからない。仕事なのか研究なのか、はたまた人なのか。ただ、いつか持つだろうその感情を素直に受け止めたい。そして大切にしたい。
こう考えるのは紛れもなく両親からの影響だ。
結局のところ、自分は両親のようになりたいのかもしれない。
「じゃあ出掛けてくる。明日には帰るから」
「阿笠博士によろしくね」
「はいはい。いってらっしゃい」
腕を絡ませて玄関を出る両親を見送る。
万年新婚夫婦で困ることも呆れることも多い。
それでもいつまでもこのままでいてほしい。
幸せに形があるのなら、この二人のことに違いないのだから。