fever
ポアロのシフトに入っていた降谷は携帯に入ったメッセージを見て珍しく固まった。
「安室さん? どうしました?」
「実は……」
不思議そうに訪ねてくる梓にどうしようかと迷ったが、正直に事情を話せば慌てたように背中を押された。
「今日はもう大丈夫です! お昼の仕込みもしてもらったし、もうすぐマスターも来る時間ですから! 安室さんはあがってください!」
エプロンを剥ぎ取られ、バックルームへと追い立てられる。怒涛の勢いに圧倒されて苦笑するが、ありがたく厚意を受け取ることにする。
愛車に乗り込み、途中スーパーに寄って適当に食材を見繕う。慣れた道を辿って目的地へ到着すると、オートロックのエントランスを抜け玄関まで一直線へ進む。インターフォンを押すことなく、ポケットから取り出した合鍵で中へ入る。人の気配はあるのに物音がしない。
「起きてたのか」
寝室のドアを開けるとベッドに横たわる家主。赤らんだ頬。パジャマから覗く襟元にじんわりと滲む汗。降谷の来訪を認めて起こそうとした上体を手で制した。
「熱は?」
「朝は38.2℃」
今はもう昼だ。様子から鑑みるに、もう少し上がっている可能性もあるが話せる状態であることに安心する。
「名前が熱を出すなんて珍しいな。鬼の撹乱かな」
「労わる気がないなら帰ってくれる?」
「食べられそうならお粥でも作るけど、どうする?」
キッチンが使われた形跡がないのは確認済だ。水の入ったコップと錠剤がなくなった薬のパッケージが置いてあったので、おおかた常備していた携帯食のゼリーでも流し込んだのだろう。
「食べる」
返答に頷いてからキッチンに戻る。何がどこにあるか把握しきった家だ。手際よくお粥ができあがる。
今度こそ上体を起こした名前にトレーごとお粥を渡した。
「食べさせようか?」
「……」
降谷の言葉を無視して名前がお粥を口へと運ぶ。「美味しい」と小さな呟きが聞こえて顔が緩んだ。
いつもよりだいぶ緩慢な動きではあるものの完食した名前からトレーを受け取ると、降谷はチェストから着替えを出す。
「汗かいてるだろう? 着替えないと」
トレーを渡してすぐ横になってしまった名前は動かない。気丈に振る舞ってはいるものの、しんどいことは明白だった。食事をとるために起き上がるのが精一杯なのだろう。
「手伝うよ」
否定の声はなかった。
パジャマのボタンに手をかけて順番にはずしていく。荒い呼吸に勘違いを起こしそうになる。汗ばんで熱った肌は正直目に毒だ。タオルで汗を拭くにも、胸の谷間に手を差し込めば柔い感覚にどうしても下半身に熱が集まってくる。
「……降谷」
「今、理性を総動員してるから話しかけないでくれ」
降谷の変化に気づいた名前が低く呼んだが、黒田管理官や元局長の顔を頭に思い浮かべて気をそらす。
拷問にも近い着替えを終えて再び熱を測ってみると39℃を超えていた。よく食事が喉を通ったものだ。相当しんどいだろうに会話も成立する。下手に基礎体力があるのも考えものだ。
「……え? ここで仕事するの?」
降谷が傍でノートパソコンを開いたのを見て名前が驚いた顔をする。
「駄目だったか?」
「普通は仕事のことは気にせず寝てろって言わない?」
「寝ててはほしいな」
言いながらすでにメールのチェックを始める。さすがに食い下がる元気のない名前は大人しくベッドに潜り込んだ。30分もすると規則的な呼吸音がする。まだ荒い息は熱が下がっていないからだろう。覗き込むと穏やかというよりも力尽きたという方が近い寝顔だった。
(熱以外の症状はないみたいだから原因は極度の疲労なんだろう)
彼女が飲んだ薬も風邪薬ではなく解熱剤だ。だから休養を取れば体力が回復してこの熱も下がるだろう。
これほどまで疲れを溜めてしまった原因は間違いなく降谷であるから、申し訳ないと思う。
「さてと」
降谷は自分のパソコンを閉じ、ベッドサイドに置いてあった名前のノートパソコンに手を伸ばした。求められたパスワードを入力してログインする。パスワードはパソコンの所有者本人以外知るはずはないのだが、名前もまた降谷のパソコンを開くことができる。そして当然のようにメール画面を開き、順に返信をしていく。
「おっと」
ベッドサイドに置いてあった名前の携帯が震えたので通話に切り替える。
「風見か」
「え? 降谷さん? ……まだ昼間ですが」
妙な勘繰りをした風見を諌めたいが身に覚えはあった。言い訳をするには分が悪い。
「苗字が熱で寝込んでるんだ。今日は彼女への報告・連絡は僕にくれ」
風見の驚いた気配がわかる。だが余計な詮索は不要と判断したのだろう。気持ちを切り替えると「わかりました」と了承の返答をしてすぐに本題に入った。
「例の件でご相談なのですが」
「ああ。それならB案で進めてくれ。外省には僕から交渉しておく」
「……あの、非常に言いにくいのですが」
「何か問題が?」
「問題になりそうなのでお伝えしますが、先方の担当が苗字さんをいたく気に入っているようでして。次を考えますと……」
この件の外務省の担当を思い浮かべる。降谷たちより少し上の年代の男だ。一度名前と一緒にいる時に彼から電話がかかってきたことがある。仕事の話をしていたはずが、最後は食事の誘いになったらしく名前が穏便に断りを入れていた。
「僕が出張って臍を曲げられると面倒ってことか」
「有り体に申しますと」
「苗字の直属の部下から連絡させろ。急務で動けない彼女の名代だと。僕や風見からよりマシだろう。苗字が電話できるくらいまで回復したらすぐフォローを入れる」
「承知しました。体調が悪い苗字さんには申し訳ないですが……」
「元々交渉しやすくするために苗字本人が仕掛けたんだろう。気にすることはない」
食事を断る様子から察していた。意図的に気を持たせるよう振る舞っている。決して露骨ではなく、下心のない人間ならばそうとは思わない程度――仮に向こうが何か言ってきても彼女が「そんなつもりはない」と言えば周囲は同意するだろうくらい小さい罠。
風見との通話を終えると、話し声がしていたせいか名前がうっすらと瞳を開けていた。
「電話……?」
「全部僕がやっておく。だから寝ていろ」
「……ん、ありがと……」
ベッドサイドの携帯やパソコン。仕事をしようとしていたのは明らかだ。
午前のうちはここまで熱が上がるとは思っていなかったのかもしれないし、解熱剤を飲めばメールの対応くらいできるはずだと考えたのかもしれない。
それは降谷が名前から連絡を受けてすぐ思い至ったことだ。
『熱が出たから今日は会社を休む』
短く端的なメッセージ。だが、短いからこそだ。
例えば、潜入先の都合で突発的に公安の仕事を休むことになれば、名前はその日の仕事について連絡をしてくる。バディである降谷は彼女の仕事状況もほぼ把握しているので詳細な説明はいらないが、自分の仕事を任せる側の責任として必要最小限は連絡する。もちろん、本当に急いでいる場合にはその限りではないが。
その名前が仕事について何の言及もしてこない。しかも(潜入先の)会社を休むとだけしかないのだ。きっと部下には自分の体調のことを告げず、寝床でもできる範囲での仕事はするつもりなのだとわかった。そして、それをするなと言ったところで難しいことも。事件は彼女の体調などお構いなしに進んでいく。
遠くから仕事をしないで寝ていろと言ったところで彼女は休まらない。
傍らで自分の分も仕事をする降谷を感じられた方が彼女は安心する。
だから降谷はここへ来た。
「……零」
「何だ?」
「……」
返答がないので振り向くと、布団がゆっくりと上下しているだけで彼女の長い睫毛は伏せられていた。少し熱が下がったのだろうか。苦しそうな表情は見えず、安らかな寝息が聞こえる。
「寝言か」
寝言でも自分の名を呼んでくれるなら嬉しい。
回復したら色々な声音で聞きたい。朗らかでも、拗ねても、甘えても。どんな時でも彼女が口にするのがこの名であるなら、全て特別になる。
「名前、無理をさせてごめん。いつもありがとう」
もう少しすると大きな山が一つ減る。そうしたら遠出のドライブをしようか。あまり人がいなくて、手を繋いで歩けるところがいい。できれば一泊くらいしたいが、難しいだろうか。名前の浴衣が見たい。できれば、その下の滑らかな肌も。
降谷はしっとりとした前髪を撫でると、そっと額に唇を落とした。
□ □ □ 「おはよう」
翌朝、キッチンで味噌汁を作っている降谷の後ろから張りのある挨拶が聞こえた。
「おはよう。熱は下がったみたいだな。顔色もいい」
伸びた背筋に、軽やかな足取り。寝室から出てきたのは見慣れた名前だった。
「おかげさまで。昨日、仕事全部代わってくれたんでしょう? ありがとう」
「いつもしてもらっているのを返しただけだよ。昨日一日じゃ返し足りないけどな」
「十分よ」
そう言うと名前が背中から腕を回してくる。コンロの火を止めた降谷はくるりと向き直って名前の顎を持ち上げた。ゆっくりと撫でまわすようなキスをして身体を離すと、再びギュッと抱き着かれる。
「名前。歓迎したいところだけど、昨日一日我慢してたからそろそろ勘弁してほしい」
「病人に対して欲情してたの?」
「身も蓋もない言い方をするなぁ……。仕方ないだろ。名前ならどうするかって考えながら仕事してたせいで、一日中ずっと頭の中は名前でいっぱいだったんだから」
「それは……悪い気はしないわね」
「だろう?」
クスクスと顔を寄せ合う。
もう一度軽くキスをすると名前がふわりと微笑んだ。
「一緒にいてくれてありがとう。零」
一瞬息が止まった後、ゴクリと喉が鳴る。
降谷は時計を見上げた。名前の出社時刻、自身のポアロのシフト、朝食、身支度に必要な時間を脳内に並べると、瞬時に逆算していく。そして出た答えに満足するとエプロンの紐に手を掛けた。