たまに、どうしようもなく馬鹿な考えで頭の中が埋め尽くされることがある。しかし私は決まって頭に浮かんだ問いの答えに辿り着くことができない。考えるだけ考えて、脳漿の海に答えらしいそれらを浮かべ眺める。眺めるだけ眺めると、やがて考えることに飽きて放棄する。
 その行為は不用意に繰り返される。満員電車、一人きりの帰り道、湯船の中、眠りにつく前。考えを巡らせている間は、ぷつんと世界から切り離される感覚に支配される。一瞬、あるいは数分。喧騒は止み、私の中の時間は止まる。
 考えること、おそらくそれ自体に意味があるのだと思う。例え目の前に回答を出されたとしても、それが仮に正解の答えだったとしても、私は首を横に振るだろう。可笑しな話だ。答えを求めて思考しているはずが、実は答えなど求めていないだなんて。
「なに食べよっかぁ」
 甘ったるい声が聞こえて、私は現実に引き戻された。
 一つの傘の下、若いカップルが寄り添って歩いていた。雨の音にかき消されて聞こえなかったが、男が何か面白いことでも言ったのか、女はしきりに笑っている。生足に跳ね返る雨水も、傘からはみ出て濡れた肩口も、彼らには気にならないらしい。結構なことだ。近い将来彼らがどうなるのか私には知る由もないが、実に素晴らしいことだと思う。
 一億二千万の人間を掻き分けて愛し合える二人が出会う確率は?運良く出逢えたとして、同じ感情を抱く可能性はどのくらい?好きの定義って何?曖昧な感情を明確に説明できる?好きと愛してるの違いって?ーー安いラブソングの歌詞にありがちの言葉がぐるぐると廻る。哲学的な思考を持つことは、全ての人間に備えられた一つの機能なのだろうか。恋だの愛だの、考えたところで腹の足しにもならない下らないことばかりだというのに、私はそれを考えずには居られない。

 どれくらいそうして居たかは分からない。隣で開かれたビニール傘が頭の上に被さってきた。何だと思いつつ左側に訝しげな視線をやると、そこにはスーツ姿の男が立っていた。
「久しぶり」
 声は確かに私に向かって投げられたが、視線は合わずに斜め上辺りに向けられている。私にこんな知り合いはいただろうか。もしかしたら誰かと間違えているのかもしれない。そう思った瞬間、頭の中の引き出しがひっくり返って記憶が起こされた。彼だ。中学までずっと一緒だった、近所に住んでいた彼。もうすっかり町を出てしまったものと思っていた。驚いて大きな声を出してしまった私に、彼はぎこちなく笑った。
「入ってく?」
 どうせ通り道だし、と。言いながら彼は灰色の雲に視線を移した。音を立てて降り注ぐ雨は止みそうにない。ゆっくりと彼の台詞を咀嚼した私は頷き、用意された空間に体を滑り込ませた。
「今なにしてるの?」
「…え?」
「仕事、今なにしてるの?」
「ああ、仕事」
 雨の音で掻き消されたらしい。そう思って少し声のボリュームを上げて問うと、一瞬虚をつかれたような表情が返ってきた。私たちが社会人になって四、五年が経つ。別に変な話題でもないだろうに。私は内心首を傾げながら、ぽつぽつと語られる彼の言葉に耳を傾けた。
 彼とこうして顔を合わせるのは中学の卒業式以来になる。仲の良い友人が彼と同じ高校だったため時折話に出てくることはあったが、本人から近況を聞くのは初めての事だ。
 毎日のようにパソコンの画面と睨み合っている私とは違い、文系の大学を出た彼は現在あちこちを飛び回っているという。つい先日は名古屋まで営業に出向いたそうだ。一人なのを良い事にちゃっかり観光地を見て周り、名産品を味わい、たまたま土産屋で見つけたご当地キャラクターのストラップを気分に任せて購入したとのこと。今時、携帯にダサいキャラクターをぶら下げている若者なんて彼くらいではなかろうか。目の焦点が合っていない侍モチーフのそれを見て苦笑いを浮かべる。
 失礼なことに彼はストラップを私の顔の横に並べて、似ていると言って笑った。私は顔を歪ませてはみたものの、不思議と嫌な気持ちは抱かなかった。
「なんか変な感じだな」
「何が?」
「こうやって普通に話せるの」
 ギクリとした。私は動揺を悟られないように笑って、そうだねと口にした。
 一体いつから私たちの関係は変わってしまったのか。確かなことは分からないが、原因が私にあることはお互いによく知っている。私が彼への気持ちを自覚しなければ、私たちの関係は終わらずに続いていたのかもしれない。こうして肩を並べて歩く時間がもっとあったのかもと思うと、ほんの少し後悔を覚える。
 少なくとも彼はずっと普通に接しようとしてくれていた。普通じゃなかったのは私だけだ。私がどんどん後ずさって行ったから、彼も普通じゃ居られなくなった。歩幅を合わせてくれようとした彼を拒否したのは私。隣を並んで歩く勇気があれば、未来は変わっていた可能性だってある。
 それでも、あの頃の私はそうする事でしか自分を守れなかった。彼に対して抱いた感情はあまりに綺麗で、痛くて、大きすぎた。やり場のない感情を前に、幼い私は戸惑いを覚えずには居られなかったのだ。
 しかし、今は違う。
「ーーあのさ、」
 あの頃よりもほんの少し大人だから分かってしまう。真っ直ぐ注がれる視線に込められた意味。私は鋭い方ではないが、辺りを流れる空気が気にならないほど鈍感でもない。
 ゆっくりと歩いていたつもりだったが、ほんの十分程度で目的地に着いてしまった。礼を言い、マンションのエントランスに足を踏み入れた私を彼は呼び止めた。あっさりとその先にある自宅に帰っていくものとばかり思っていたから、正直なところ驚きを隠せなかった。彼は私から目を離さないまま、口を開き、しかし言葉を詰まらせた。
 反射的に脳みそが私に警告した。駄目だ、言わせてしまってはいけない。きっと彼は私の心を揺らす。言わせてはいけない。
 何かを言おうとした彼の声を遮り、私は何年かぶりに彼の名前を呼んだ。
「ありがとう、じゃあね」
「……うん。じゃあ、」
 彼の瞳が揺らいだのは見間違えではないだろう。数秒押し黙ったあと彼は下手くそな笑顔を浮かべ、傘をさしてエントランスを出て行った。
 一人残った私は、そんな資格はないと自覚しながらも、どうしようもない虚無感に襲われた。後悔は無い。私も彼も大人だ。感情だけで駆けていける子供ではない。面倒くさいことを考えながら生きる、面倒くさい大人。彼の言葉を聞かなかったことは正しい選択だったと思う。彼が言葉を詰まらせたのも、私と同じ考えを抱いたからに違いない。でも、じゃあ、この虚無感の正体はーー?

 佇んだまま、アスファルトに打ち付けられる無数の雨粒を眺める。雨音が遠くに聞こえる。静寂の中に落とされた私はまた、思考を巡らせ、解けることのない問いの答えを探す。



20180913
迷子。何が言いたいか分からない。リハビリ難しい眠い
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