夏の夜だというのに汗の一つもかいてない様に見える。彼女は長い睫毛を瞬かせて、それから薄く笑ってみせた。
「証拠は?」
 今度は俺が目を瞬かせる番だった。考え得る限り、ありとあらゆる回答を予想してここに来たつもりだったが、これはあまりに想定外だ。確かに俺は彼女に好きだと伝えた。しかし彼女は俺に問うた、証拠は?
 出逢った頃から、少し変わった子だとは思っていた。外見は中の上程度。俺が好意を寄せていることを差し引いても、結構美人の部類だと思う。スタイルだって悪くない。何故恋人がいないのか不思議なくらいだ。黙っていれば普通、だったか。意味ありげな言葉と共に彼女を紹介した同僚の言う通り、彼女はどことなく、今まで見てきた子とは違っていた。とは言え、所謂“電波系”のように突拍子で支離滅裂な言動があるわけではない。どう言った点がと言われると説明が難しい。ただ時折、そう、正しく今がそうだ、いつもの空気とは異なるそれが彼女を包む。冷たいそれは彼女と他人との間を隔てる。まるでこの先には立ち入るな、近付くなと警告するかのように。
 息を飲む。一歩、地面の感触を踏みしめてからさらに前へ。距離を詰めると、彼女は伏せていた顔を上げて俺の目を見た。どきりとした。これから起こることを知っている目だ。吸い込まれるように顔を近付ける。唇に確かな感触と、遠慮気味な吐息。目下、至近距離で長い睫毛が揺れた。
「これが証拠?」
「…ナシ?」
「キスなんて好きじゃなくても出来るよ」
 細い指先が確かめるように下唇に触れる。吐いた言葉とは裏腹に、その声はどこか嬉しそうだった。もしかして同じ気持ちなのだろうか。もしかして、彼女も俺のことを。
「好き」
 紡がれた二文字。俺の口が開きかけたその時、彼女は間髪入れずに言った。
「って言うのは本当だけど、信じられる?本心からの言葉だって断言できる?」
 ぽかんと口を開けたまま、俺は彼女の言葉の意味を理解しようと脳みそを働かせていた。俺は彼女が好きで、彼女は俺が好き、つまるところ同じ気持ちなわけだ。両思いイコール恋人同士。三十年近くそう信じて疑わなかったわけだが、彼女にとってはそうじゃないらしい。
 俺は彼女が好きだという気持ちを証明するためにキスをした。なんとなく、定石通りにそうしたわけだが、よくよく考えてみれば彼女の指摘した通りだ。どうしてキスが好意の証明になるのか。そこにいるカップルにしてもそうだ。もしかしたらあの男女はカップルじゃなくて、金で繋がっている関係かもしれないし、女の方にはもう気持ちなんかなくて、男の一方通行に仕方なく付き合っているだけかもしれない。キスをしていても、二人が愛し合っているという確証はどこにもない。
 じゃあ、それなら、どうやって彼女に伝えればいいのか。言葉では、キスでは、証拠にならないと断言した彼女は俺に好きだと言った。俺はその言葉を本当に信じられるのだろうか。一方通行ではなく、彼女に繋がっているのだと、確信できるのだろうか。
 何か言わねばと口を開いては閉じてを繰り返す俺を見兼ねてか、彼女は小さく笑った。どこか困ったように眉が下がっている。
「困らせたいわけじゃないの。ただ分からないだけ」
 どうして誰かの感情に確信が持てるの?嘘をついているかも知れない。好きじゃなくたって手も繋げる、抱きしめられる、キスも、それ以上だって出来る。特別だって言いながら、他の誰かにも同じ事をしてるかも。心の中では単純な人間だって思って笑ってるのかも。私の気持ちは本当だよ。でも嘘かも。ううん、本当に好き、だけど、どうしていいか分からない。好きな人の言葉を信じたいけど、信じて、浮かれて、傷付くのはもう、
 ――気付くと腕の中の彼女は、口を噤んで、ほんの少しだけ震えていた。小さな嗚咽と鼻をすする音が聞こえる。
 傷付くのが怖い?俺だって同じだ。
「いたい、」
「俺も痛い」
 痛みだって、きっと今同じくらい痛い。
 ぼろぼろと壊れたみたいに流れ落ちる涙を見たとき、痛みの振動が全身を駆け巡った。心臓が痛い。腹も、首も、彼女を抱きしめる両腕も、痛くて痛くて仕方がない。心臓が苦しい。苦しくて思うように息が出来ない。感情だけでこんな風になるなんて初めてだ。感情の一部分がそのまま流れ込んで来たみたいだと言ったら、彼女は笑うだろうか。

 ピクリと動いた腕が、恐る恐るといった感じで俺の背中に触れた。ぎゅうと抱きしめると応えるみたいに抱きしめ返してくる。彼女はどう思っただろう。俺にはそれがたまらなく愛おしいものに思えて仕方がなかった。



20180824
×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -