想像はついていたものの、現在進行形で私をお嬢様と認識しているらしい彼が大人しく外出を許可してくれるはずがなかった。いつもは一緒にデートに来ても詩興が沸いたら御構い無しに私を放置するくせに、調子が狂うとは正にこのこと。早いところ元の誉さんに戻ってくれることを祈るまでである。
眠ってしまった密さんの頭上にて。殆ど一方的な口論を繰り広げたのち、私は漸く太陽の下に繰り出した。まだ六月だというのに暑さだけは立派に夏そのもの。時折吹き抜ける穏やかな風が心地良いものに思える。「あまり飛び跳ねると下着が見えますよ」と、ワンピースの短い丈と肩の露出に頭を悩ませる執事は少し面白い。日光に当たりすぎては身体に触るとかなんとか、無理やり被されたつばの広い帽子のおかげで気分は「お嬢様」のそれだ。

「やはりお身体に触っては大事です。戻りましょう」
「まだ一軒しか回ってないでしょ、買い物くらい自由にさせてよ」

数歩後ろを歩く誉さんは未だ鷺島のまま。普段は振り回すより振り回される側だから、文句の一つも言わず後ろをついてくる彼の姿は貴重だ。今後見ることはないと言い切っても過言ではない。写真でも撮っておくべきだろうか。

「というか何でついてきたの?確かに今日は誉さんと約束はしてたけど、密さんの執事なら私のとこいちゃ駄目でしょ」
「私の主人は密様となまえ様です」
「あ、そっか」
「それに…お身体の弱い貴女がお出かけになるというのなら、執事として放っては置けません」
「だから私元気だってば」
「…ああ、そうでした。前の主人が床に伏していたので、つい」

影を落とす。最初はなんのことかと思っていたが、彼が私に重ねているお嬢様とやらは身体が弱いらしい。そうして思い返してみれば、カンパニーを訪ねて来た私に彼が見せた表情の意味も納得がいく。起き上がることも出来ず、毎日を屋敷で過ごすお嬢様は何を考えて生きていたのだろう。ここ数年風邪を引いた記憶もない、元気だけが取り柄で、年がら年中生気に満ちている私には想像もできない事柄だ。

「お嬢様ってどんな子だったの?」

一通りの買い物を終え満足した私はどうにも舞い上がってしまっていたらしい。立っていると言った誉さんを半ば強引に隣に座らせ、ふと浮かび上がった疑問を口にした。遠くの方では学校帰りの子供たちが遊具で遊んでいる。ランドセルを放り投げて、きらきらと眩しい目を輝かせて。情緒的な光景だ。そう、街にはいくつもの心揺さぶられる景色があったというのに。一つも詩を読もうとしない誉さんはやっぱり気味が悪い、そう考えながら盗み見た顔には変わらず無表情が張り付いていた。木陰のベンチに二人。間に出来た隙間は不思議ともどかしいものには思えなかった。何故なのかは解らない。ただその肩に寄りかかることが出来なかった。私の中の何かが、その空間を“埋めてはならない”と警告する。ついぞ私の頭も変になったか、否。
何の気もなしに発した私の疑問に誉さんはーー鷺島亨は、ほんの一瞬だけ悲しげな表情を浮かべる。聞くべきではなかったかもしれない。そう思ったところで出したカードを引っ込める術もなく、長い長い沈黙の後、彼は重たい口を開いた。

お嬢様は小さい頃から身体が弱かった。外で遊ぶことができなかった彼女にとって、本を読むことだけが外の世界と繋がる唯一だったと語る。知識に溢れ、人を思いやれる心を持った優しい人。そんな彼女を、兄である東条志岐は心底溺愛していた。

「容態が悪化したのはお嬢様が16になった頃でした。志岐様はありとあらゆる医者に彼女を診せましたが、どんなに優秀な医者も言うことは同じーー」

余命僅か数年。5年生きられたら奇跡だろう、と。諦めきれずにいる志岐に彼らは無情にも言い渡した。例え手術をしても助かる確率は驚くほどに低い病。海外にまで足を伸ばした志岐は信頼の置ける医者を見つけ出し、少しでも可能性があるのなら手術を受けるべきだと彼女に勧めた。しかし、彼女は柔く笑って言ったそうだ。「知らない地で死ぬくらいなら、私は、残された時間をお兄様と鷺島と一緒に過ごしたいの」その場では引き下がった志岐だったが、彼という人がそう簡単に妹の死を受け入れられる筈がなかった。志岐は鷺島に懇願にも似た名を下す。如何にか彼女を説得して欲しいーー。主人から頼まれた鷺島は、それとなく彼女に問うたそうだ。

「本当に手術をお受けにならないのですか」
「ふふ、お兄様に説得しろって頼まれた?」
「私も志岐様と同じ考えです。少しでも可能性があるのに諦めるなど、貴女らしくも…いえ、何でもございません。差し出がましいことを」
「鷺島、言ったでしょう。私は残された時間をこの場所で過ごしたいの」
「…それが永遠のものでないと分かっていても、ですか」
「そうよ。だって此処を出てしまったら貴方と逢えなくなるもの。愛しい人と離れ離れになるなんて、そんなもの悲劇に他ならないわ。死ぬよりも怖くて堪らない」


彼女が最も恐れたのは死ではなく、愛する人と離れることだった。なんて強いひとだろう。それが作られた物語だということも疾うに忘れて、どうしようもなく泣き出しそうになる。ああ如何して。如何してこんなにも悲しい気持ちが流れ込んでくる。酸素を取り込もうと口を開くと、ダムでも決壊したみたいにぼろぼろと涙が溢れた。
いつの間にか目の前に立っていた鷺島は、目を擦ろうとした私の腕を柔く掴み、人差し指で涙の粒を掬った。

「泣かないでください、貴女の泣き顔は…心が締め付けられる」
「キミはすぐ泣くね。キミに泣かれると、どうしていいか分からなくなる」

同じだと思った。記憶の中の苦く、もの哀しげな顔が目の前の彼と重なる。心臓が締め付けられて、いたくて、涙が止まらない。この愛しくてたまらない人と離れねばならない時が、いつか私にも訪れるのだろうか。それは恋心が終わりを告げる時かもしれない。あるいは彼と彼女のように、どちらかの命が尽きる時かもしれない。その時を想像する、それだけでこんなにも苦しくて堪らないというのに。(その時が来たら、私は、)

「鷺島」

辺りがオレンジ色に染まった頃。歩き慣れた帰り道で彼の名前を呼んだ。

「好きよ、鷺島。私は貴方が好き」
「……、お嬢様、」
「例えお兄様に反対されても…いいえ、誰一人として祝福してくれなくても、私のこの気持ちは本物よ」

死さえと恐れなかった彼女が言えなかったこと。好きだと口にしてしまえば彼はきっと悲しい顔をすると分かっていた。狂おしいくらいに欲しくて堪らないのに求めることをしなかった。彼女は優しすぎたのだ。

「いけません。執事である私と、主人である貴女は結ばれてはいけないのです」
「…いつもそればかり、もう聞き飽きたわ……」
「志岐様と違い聡明な貴女なら、それがどんなに間違ったことか理解できるでしょう。さぁ帰りましょうお嬢様、お身体に触るといけない」
「っ、待って…!」

側に居てくれるだけで幸せだなんて、強がりも良いところだ。きつく抱きしめて、口付けて、好きだと言って欲しいくせに。
淡々と、顔色一つ変えず諭した鷺島の右腕を掴む。此方を見向きもしない背中。帰りましょうという声が震えているのが確かな証拠。こんなにも好きなのに、同じ気持ちの筈なのに、ねえ如何して。

「私に残された僅かな時間を…貴方と共に生きられないのなら、私は生きながらにして死んだも同然です。…ねえ、鷺島。お願いよ、私は貴方の本当の気持ちが聞きたいの、」

絞り出した声は情けないくらいに震える。長いような短いような、瞬きの一瞬ほどの時間だったかもしれない。心臓だけが騒がしく脈打つ中、やっと振り向いた鷺島は乱暴に私の顔を掴んで唇を押し付けた。

「、ずるい人だ」

どこか熱っぽい顔が名残惜しそうに離れる。少し掠れた声で呟いた鷺島は、私を胸元に押し込めて、駄々をこねる子供をあやすように頭を撫でた。地面に転がった帽子は風に攫われる前に拾われ、「帰りますよ。志岐様がご心配されますから」言葉の先にいる相手は私か、お嬢様か。熱に魘された頭をゆるりと動かしながら、私は差し出された手を取ることしかできなかった。

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20170623
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