鏡の前、首筋についた跡にぼんやりと焦点を合わせながら思考する。頭が回らないのは寝起きだからーー?否、それだけが原因ではない。一見心は冷静を保っているように思えるが、少なからず私も動揺しているらしい。(あんな顔を見せられたのだ。)(複雑な感情が渦巻いていたところで何ら不思議もない。)
脈絡のないキスは初めてだった。どうしたのかと問う私に彼はただ一言謝って、遠慮気味に首筋に唇を這わせた。もともと最中の口数が多い方ではなかったけど。あの彼が一言も発さず、ただ、いたく苦しそうな表情を浮かべていた。そう、例えば、掌からこぼれ落ちる何かを必死に繋ぎとめようとするかのような。どこにだって行く気はないというのに、事が終わるまでずっと、長い指は私の手首をキツく掴まえていた。どこか湿った瞳を前にいつもの冗談じみた台詞なんて投げられるはずもなく、黙って身を委ねていたわけだが。
しばらくは消えないであろうそれを指でなぞったとき、ふと、鏡の端に人影が揺れた。振り返るとーーまぁ何とも。バツが悪そうな、それでいて申し訳なさそうな顔をした彼が立っていた。

「昨日はすまなかったね」

私と視線を合わせようともせず、誉さんは斜め下の方を見やったまま謝罪を口にした。何のことに対する「すまない」なのか、完全に機能していない脳みそは答えを出すことに幾分か時間を要したが、続けられた台詞を聞いてやっと合点がいった。

「昔のことを思い出して、どうしようもなく不安に駆られてしまったんだ」

昔のこと。誉さんが言うそれは、以前付き合っていたという彼女と出来事を指しているのだろう。「壊れたサイボーグ」という何とも的確すぎる言葉を投げつけ、誉さんの元を去っていったらしい彼女。正直なところ、私は顔も名前も知らない彼女が大嫌いだったりする。好きな人を傷付けたから、だなんて可愛い理由じゃない。私はただ、どんな理由にせよ彼女が誉さんの心に居座り続けていることが憎くて憎くてたまらない。(…いや、)違う、何より気にくわないのは申し訳なさそうに毒を吐くこの男だ。昔のことを思い出した、それは無意識に私と彼女を重ねている、つまりそういうことじゃないか。クリアになってきた頭が苛つきを覚え始める。私は一つ息を吐き出し、ほんの数歩の距離を縮めた。

「ワタシは思っていたより、キミに依存しているらしい。キミもいつか彼女のようにワタシから離れていくんじゃないかと思ったらーー、いっ!?」

つらつらと言葉を並べる誉さんの頬を力の限り抓ってやると、いつもの彼からは想像のつかない、自信なさげな瞳がやっとこちらを向いた。

「馬鹿」
「な、なんだっていうんだい唐突に!」
「馬鹿だよ、誉さんは」

二度も罵倒された天才は、漸く解放された頬を押さえ、訳がわからないとでもいうように目を瞬かせた。
馬鹿で身勝手で人の感情どころか空気も読めない。良くも悪くも自分の世界に入ったら手のつけようがないし、今だってそうだ、こっちの気持ちも御構い無しに勝手に自己完結しちゃうようなどうしようもない人。でも、そんなところも全部まるまる引っくるめて、こんなにも好きになってしまった馬鹿な私を、どうか見くびらないで欲しい。
額を胸元にくっつけると、どちらともわからない心臓がびっくりしたように音を立てた。

「安心して、離れられそうにないから」
「…まったく、ワタシの頬をつねった挙句馬鹿呼ばわりできるのなんて、世界中探してもキミくらいだ」

行き場のない右手は暫く身体の横あたりを行ったり来たりしていたが、やがて居場所をみつけたみたいに、やんわりと髪を撫でた。だらしなく緩んだ顔を指摘したら、お返しに顔が赤いことを指摘されてしまいそうだからやめておこう。もう暫くこのまま。なんてことない幸せを噛み締めながら、ほんの少しの我儘が鈍感な彼に伝わりますよう。

20170621
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