涙を流すことを恥と思う必要は全くない。英国のとある作家が詠ったそれには深く頷ける。音もなく溢れ出す涙を美しいと思うのは、しかしこの状況では随分と滑稽である。ワタシはスローモーションのようにゆったりと流れる眼前の出来事を、さながら美術館に並ぶ芸術品を眺めるような気分で見つめていた。秋風が木の葉を揺さぶる音が耳に届く、ひやりとした夕暮れのことだった。

彼女はフラワーショップの前に佇んでいた。花束を注文したのだろう、店員らしい青年がせっせと花を手に取っているのが見えた。膝丈のスカートの裾が揺れる。ミドルグレーにステッチがあしらわれたそれは彼女のお気に入りだ。特別な日に着るのだと、どこか嬉しそうに零していたのを思い出す。
二人が言葉を交わす様子を遠目に見る。気の弱そうな青年は暫く彼女の顔を見つめていたが、すぐに気を取り直して包装紙を手に取った。ぼんやりと彼女を見つめた視線には何度も見覚えがある。老若男女問わず。凡人も天才も例外なく、どんな人間も必ず一度は彼女の美しさに心を奪われ、ああして瞳を揺らすのだ。かく言うワタシも例に漏れず、その芸術品のような繊細さに執心しているうちの一人である。しかし、この感情を恋と呼ぶにはあまりに軽薄すぎるとも思う。確かに彼女は美しいが、それでいてどこか恐ろしい。表情に乏しいせいだろうか。あるいは、掴み所がないせいか。
思考を巡らせていると、まあるい眼球がワタシを捉えた。まるで最初から気付いていたような動作にギクリとした。あたかも冷静を装って微笑むと、彼女もまた笑みを浮かべた。口角を少し上げて目を細める。彼女はいつもそうして笑う。

「お仕事?」
「終わって帰るところだよ。なまえくんは…これから誰かと会うのかい?」
「…そんなところ」

彼女の手にはバーベナの、小さな花束が抱えられていた。紬くんがいたら花言葉でも言い当ててくれそうなものだが、生憎その花々の語る意味は分からなかった。ただ、ホワイト、ピンク、パープルと色とりどりであるはずのそれは何故だか少し寂しげに見えた。

「少し、時間ある?」

適度な沈黙のあと彼女は言った。何故、とは問わなかった。問うてはいけないような気がした。

「ここは?」

車に揺られること20分程。
連れられてやってきたのは大きな河に架かる橋の上だった。車通りはおろか人通りも疎らな場所だ。こんな場所があったのかと感心しながらも疑問を口にすると、彼女は橋の向こうを見つめながら答えた。

「大切な人が亡くなった場所」
「…それはまた、」

残念だったね、と。言うより先に彼女はクスクスと笑い始めた。

「嘘かい?」
「本当かもしれないじゃない?」
「不謹慎だ」
「そうね、こういう嘘はあまり良くないかも」

言いながら橋の欄干に手を添え、また遠くの方を見据える。吹いた風が栗色の髪を掻き撫でた。隙間から見えた瞳に色は浮かばないまま、ただ不明瞭に雲の流れを映している様だった。人の心が分からないワタシに、彼女の考えを読み取ることが出来るはずがない。たとえルーペを使ったとしても同じことだろう。彼女との間に隔てられた壁のようなものは酷く強固なものに思えた。

「ねえ、自分より大切なものってある?」

そんなワタシの考えなど露知らずーーもしかしたら知っていたのかも知れないがーー彼女はまるで唄うように言葉を紡いだ。

「そういうものって大抵失ってから気づくって言うけど、本当ね。心にぽっかり穴が開いてーーもう、一年経つのに」

大切な人を亡くしたというのは本当らしかった。それが肉親か、友人か、あるいは恋人か。ワタシには関係のないことだったが、珍しく口数の多い彼女はどこか悲しんでいるようにも見えた。

「悩める時間はそれぞれだよ。ワタシも今のままでいいと思えるまで、随分とかかってしまった」
「…忘れられる?」
「忘れたいのかい?」
「わからない。辛い気持ちは忘れたいのに、記憶が薄れていくのが怖くて堪らないの」

顔さえも思い出せなくなるのが怖いのだと。ゆるやかに存在が消えていくのが怖くて仕方ないのだと。透き通った声は震えていた。人間らしい、凡人らしい感情だと思った。掴み所のない彼女の中身がほんの少し見えた気がして、嗚呼、だからだろうか。いつもなら言葉に迷うことなどないに等しいというのに。まさかこのワタシが、脳内に散らばった言葉の海から正解を探そうとするなど。

「誰もキミを責めはしないよ」

彼女はこちらを向くと、まあるい目を柔く細めた。誉さんならそう言ってくれると思ってた、と。先ほどのようにクスリと笑いながら呟いて、手にしていた花束のリボンを解いた。バーベナが風に浚われる。

「きれい、」

とても、綺麗な情景だった。
少し伏せられた顔の輪郭を伝うもの。言葉と同時に溢れた液体は、不定なリズムで彼女のの頬を伝って流れ落ちた。そこに泉でもあるかのよう、まさに溢れるというに相応しい泣き方だ。ぐずるなど無様な真似はせず、ただ涙の流れるに任せて泣いている。なんて美しい。触れたのなら、砂の城のようにさらりと崩れてしまいそうにさえ思える、そう、まるで作り物のような光景である。
しかし、何より驚いたのはーー。

「キミも泣いたりするのか、」
「私を何だと思ってたの?」

まあるい瞳が驚きの色を帯びる。やっと気付いたが、ワタシは彼女のことを誤解していたらしい。

「凡人だもの」
「些細な感情に流されて涙を流すし、どうしようもなく人を好きになることだってあるんだから」

そう言って彼女は綺麗に笑った。やはりその笑顔は花が綻ぶような麗しいものではなくて、例えるならそう、静かな水面に涙が一滴落ちるような、そんな笑い方だった。

20171012
試聴しちゃったんですよね。耳元で毎日歌われてノイローゼになりたい
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