好きな人というのは厄介だ。目の前にすると心臓が騒ぎ出して、首から上に血液を集めて、脳みその出す命令に背いては身体を回れ右させる。本当は涼しい顔で他愛のない話をしてみたい。きちんと向き合って、仲がいい友達みたいに話がしたい。「話さないと何も始まらないよ」と友人は言うけれど、まさにその通りだ。動き始めたのはわたしの中の感情だけで、彼とわたしの関係はせいぜい知り合いどまり。こんなに悲しいことってない。でも、難しい。おはようどころか名前もまともに呼べないわたしは、とんだ意気地なしだ。

「なまえチャン」

名前を呼ばれて心臓が跳ねた。振り向いた先に好きな人。どうもこんにちは、おつかれさまです。心の中だけで唱えて数歩後ずさったわたしを、彼はきっと訝しく思ったに違いない。

「ど、どうかしましたか」
「ブラ透けてっけど」
「えっ、うそ!?」
「ホント。もしかして誘ってんの?」
「さそ…ッ、違います!!」

セクハラだ!セクハラ!
荒北くんはたまにとんでもない冗談を口にする。もしかしたらわたしのことを単なる人見知りと思って緊張を解こうとしてくれているのかもしれないけれど、逆効果だ。冷たい指先で熱い顔を冷ます、なんていう殆ど無意味の行動に出ていると、頭の上に何かが降ってきた。

「貸してやるから着とけ」
「……ありがとうゴザイマス」

ぶっきらぼうに優しい。そんなところも、わたしの心を掴んで離さない彼のズルいところだと思う。

部活のない放課後の出来事だ。
地味に美化委員に所属しているわたしは、とろとろと教室の掃除をしていた。相方は他の委員とともに別の場所を掃除中。なかなか寂しい。そんなとき、誰もいなくなった夕暮れ時の教室に彼はやってきた。

「あれ、帰ったんじゃ、」
「忘れもん」

同じクラスなのだから、何もおかしなことはない。まさかの二人きりというシュチュエーションにぐるぐると目が回る。
大丈夫、何も心配しなくても、荒北くんはすぐに教室を出て行く。そしたら今日こそバイバイ、また明日って言うんだ。
頭の中で予行練習をしていたのだが、荒北くんは自分の席に座ったままなかなか立ち上がろうとしなかった。忘れ物とやらを探す様子もなく机に突っ伏して、あれ、もしかしてわたしのほうを見ている…?いやいや、まさか。

「えっと、忘れものとは一体…」
「なまえチャンそれいつまでかかる?」
「へ、これですか!あと10分くらいで全部終わる、かな…?」
「待ってっから早くしろ」
「えっ!?」

このあと何か部活関連の予定はあっただろうか。いや、わたしは確かにトロいけどスケジュールを忘れるほど呆けてはいないはず。
心臓と脳がフル回転しすぎてどうにかなってしまいそうだ。その状況下、何とか10分以内に掃除を終わらせたわたしを誰か褒めてほしい。わたしは、次に荒北くんにかける言葉を考えながら掃除用具を仕舞う。なんで待っててくれたの、だとダイレクトすぎるから、もっとこうナチュラルな声かけを、――って、え。

「あ、の…近くないです、か?」
「思ってたんだけどさァ、なまえチャン何でオレだけには敬語なの?」
「そ、それは、」
「東堂とか新開とはフツーに話すのに、オレが近づくと逃げるし」
「っ、荒北くん、ちかっ、」
「そんなにオレが怖いかよ」
「怖くない、けど、その…わたしにも事情というものがありまして…」

息がかかる距離。髪が触れる距離。振り向いた先にあった匂いに思考が掻き乱される。今まさに。
しどろもどろに組み立てた台詞は、震えた唇のせいで何とも不自然に仕上がってしまった。誤解はされたくない。でも、本当に怖がってなんかいない。意識に反して、身体が勝手に反応するだけだ。本当はちゃんと話したい。下を向かないで前を見て、視線を重ねて、ちゃんと。

「事情ねェ」
「き、聞かないで!」
「ふーん。んじゃ、オレのこと名前で呼んでくれたら聞かねェでやるよ」

なんで、という質問は受け付けてくれないらしい。畳み掛けるように「呼んで」と言われて呼吸が苦しくなった。息を飲む。みんなだって呼んでいる、ただの名前、たった四文字のそれがどうにも喉に詰まる。
カラカラになった喉を揺らして絞り出すように言えば、荒北くんは満足そうに笑った。にやり。いつも通りのそれだけど、至近距離すぎて、心臓はいつも以上に騒がしい。

「これからもっと仲良くしよーぜ、なまえチャン」

ドキンなんて可愛らしいもんじゃない。いつだって心臓はバクバクと、鳴りすぎて血管が破裂してしまうんじゃないかってくらいにけたたましい。わたしの頬をするりと撫でた彼は、この胸の高鳴りを知っているのだろうか。もし知っているとしたらそれはとんでもないことだと、夕暮れ時の教室、わたしは一人へなへなとその場に座り込んだ。



20140304
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