わたしには密かに恋愛マスターと呼んでいる人物がいる。マスターの恋愛事情はよく知らないけど、葦木場先輩が熱烈に語っていたから多分すごいんだと思う。きっとモテモテだ。告白はひっきりなし、バレンタインデーにもなれば下駄箱机ロッカーその他もろもろ至る所にチョコレートが詰め込まれているに違いない。そんなマスターは心なしか荒北先ぱ…じゃなかった、靖友さんに似てる。でもでも靖友さんがモテモテになったらわたし超絶困る。かっこいいしイケメンだし優しいしかっこいいけど、靖友さんの良さだったり、他の人には見せない顔だったり、そういうものを知っているのは世界でただ一人わたしだけでいいのだ。なーんて言ったら、この前広辞苑で殴られたけど万事オッケー。靖友さんの照れ顏はいっそ世界が救えるレベルだ。あんな人がわたしの彼氏サマだと思うと未だに動悸息切れがする。

「なまえ、黒田さんのとこ行かなくていいの?」

山岳の言葉で我に返る。危ない。また頭の中が愛しのダーリンでいっぱになるところだった。

「マスター!大事件です!」

何故か道端で寝ていた山岳を置き去りに、わたしは箱根学園自転車競技部部室に飛び込んだ。休日なのに人がたくさんいて少したじろいだものの、そうも言っていられない。ホントの本当に大事件なのだ。
ローラー台なるものを使っていたマスターがペダルを漕ぐ足を止めてこちらを見た。「あ、マスター髪切りましたね!前髪の具合が靖友さんみたいでとてもいいと思います!」マスターの新しい髪型を目にして思ったことをそのまま伝えてみると、間髪入れずにボトルが飛んできた。泉田先輩が青い顔をしていたけど、大丈夫です。いつものことなので。

「おまえ何でここに…あ、荒北さんのとこに遊びに来てんのか」
「大事件なんです」
「今度は何だよ。オレも次の大会控えてるし、そこまで暇じゃねえんだけど」
「靖友さんの逆鱗に触れました」
「悪い塔一郎!少し出てくる!」

マスターはそれなりに優しい。あれやこれやと言いながらわたしの相談に乗ってくれる。その辺の不器用な優しさも少しばかり靖友さんに似ていると思うんだけど、言ってしまえばジャストミートでわたしのおでこが割れてしまいそうなので黙っておく。

「荒北さんのこと名前呼びになったんだな。成長したじゃねェか」
「マスターのおかげです」
「それで、どうしたんだよ」

どうしたもこうしたもないですよ。わたしはマスターからもらったビックルを一気に飲み干し、先ほど起こった出来事について斯く斯く然々と説明した。
簡単に言えば、靖友さんに恋愛マスターの存在がばれた。それだけのことだ。メールボックスの中にあった黒田先輩の名前に靖友さんは唐突に機嫌を悪くして、「おまえオレの女じゃねーのかよ」正直胸キュンしすぎてパァンてなるかと思ったけど、思ったけど。如何せん、マイダーリンの顔がとてつもなく恐ろしかったため、脱兎のごとくここまで逃げてきたというわけだ。アレは獲物を殺る目だ。バカなわたしでも分かる。ちょう怖い。

「どうしたらいいですか!付き合って早半年!わたし的にはそろそろ靖友さんを好きな女の子とバトルになる展開を予想していたんですけど、まさかマスターとの浮気を疑われるなんて予想外にもほどがあります!心外です」
「知らねえうちに巻き込まれてるオレのほうが心外だ」

こんなことならいっそライバルの女の子と「荒北くんと別れなさいよ!」「あなたなんかよりわたしのほうが好きだもん!」「何ですって!?」とかなんとか泥沼展開を繰り広げたかった。最後には手と手を取り合って「幸せになりなさいよ」「あなたもね」熱い想いが産み出した恋のバトル。それを終えた二人は固い絆で結ばれ――、

「やっぱり黒田のとこいやがったか」

あ、わたし死んだ。青筋を浮かべる靖友さんは誰が見てもわかるくらいに怒ってる。顔も知らない女の子との涙なしでは語れない物語はどこへやら、わたしの頭の中は三つの選択肢で占められた。
逃げる、弁解する、諦める、――否。まあ人生そう簡単にはいかない。一つ目を選択したはずが腕をガッチリと掴まれた。完全に据わっていらっしゃる眼に弁解の余地はなし。残された選択肢を取る以外にこの場を乗り切る術は見当たらないわけだけど、うん、どうしよう。

「帰んぞ」
「…もう怒ってない?」
「怒ってねえように見えるゥ?」
「ごめんなさい!!」

あまりに怖すぎて冷や汗が流れた。嫉妬してる姿も可愛い、なんて思っても口にはできない。間違って口を開いた暁には、おそらく物理的にガブリとやられる。経験上アレはとても痛い。痛いといえば、掴まれた右手もなかなかに。さながら死刑執行を待つ犯罪者の気分だ。

「あの、わたしの処遇は…」
「お仕置きコース」
「い、いやです!お仕置きという言葉には胸熱だけどアレだけはマジなんで嫌です!靖友さんは好きだけど痛いのは嫌い!」
「痛くなきゃお仕置きっつわねーだろ」
「やだやだやだ!わたし帰らない!黒田先輩と一緒にいる!」
「おまえなァ!」

アレをやられるくらいなら噛みつかれたほうが数倍マシだ。この胸ぐらを掴まれた状態からどう逃れようかと考えていると、黒田先輩がわたしと靖友さんの腕を引き剥がした。

「嫉妬かよ、みっともねえ」
「ア?」
「一応女子っすよコイツ」

一瞬メシアかと思ったけど、状況は全くもって好転してない。むしろ悪化してませんかコレ火に油じゃないですかコレ。

「関係ねーだろ。部活戻れ」
「ほっとけませんよ。なまえはこれでも大事な後輩ですから」
「軽々しく呼んでんじゃねーよ」
「アンタよりも付き合い長いんで」

二人の間に挟まれたわたしはダラダラと嫌な汗を流し、時が過ぎ去るのを待つしかない。ナムアミダブツ。なるべく無心を保ち瞑想の中へと旅立っていると、黒田先輩がわたしの耳を両手で塞いだ。何を言ったかはわからなかったけど、きっと良くないことだ。そうでもなければ靖友さんが顔をひくつかせるわけがない。
言葉の応酬はそこで終わった。靖友さんはわたしの手を取って、くるりと踵を返した。「なまえ」名前を呼ばれて振り返れば、黒田先輩がニヤリと悪い顔をしていた。

「また何かあったら連絡しろよ」
「ぜってーすんなよ」

どうしろってんですか!
混乱するわたしをズリズリと引きずるようにして靖友さんは歩いていく。舌打ちが響いたところを見るとどうにも機嫌が悪いらしい。グッバイ平穏。わたしは考えつく限りの謝罪の言葉を考えながら、心の中で合掌しておいた。



思わず舌打ちをする。なまえチャンが後ろでビクッと肩を震わせたのがわかった。別に怖がらせたいわけじゃない。ただ、黒田が言った言葉が癪に触っただけだ。

「隙あらばと思ってるんで、ちゃんと捕まえておいたほうがいいっすよ」

バァカが。ふざけやがって。誰が他のやつに、ましてやおまえなんかに渡すかっつの。



20140227
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