1コール、2コール。味気のない機械音のあとに聞こえてきた声に、私は携帯電話を握り直した。テンションに任せた喋り方こそいつも通りではあるが、思いの他その声は少しばかり掠れていた。

「ちょっと散歩付き合って」

昨日はどこへ行ったとか、今日は何をしたとか、そんなことはどうだっていい。聞きたいのはそんなことではないのだ。相も変わらず可愛さのカケラもない呼び出し方だとは思った。あの姉弟を横暴だと称することは今後控えようと思う。珍しく私たちの間に流れた沈黙は何とも言えない気まずさを運んでくる。痺れを切らした私が言葉を発しようとしたとき、「今から行くから、そこにいてくれ」やはり控えめな声で言った。

十数分後にやってきた尽八は、遅かったわけでもないのに謝罪の言葉を口にした。それに対して私は何の言葉も返さずに、ただそこに座るよう指先だけで促す。すると、想像はしていたが、尽八は私との間に人一人分の距離を置いて座った。目を合わせようとはしてくれない。どこか別のところを見たり、手元やら足元やらに視線をやったりと忙しない。カチューシャをしていない前髪が目元を隠す。まるで昔に戻ったようだと思った。舌打ちをしそうになったが、しかしそれも理不尽だと思い直して何とか気を鎮めた。いつも自信満々そうにしている尽八を、そんなふうにしてしまったのは他でもない私だ。前を向かせたのは私だったというのに、皮肉にも。そう思うと渇いた笑いが漏れそうになった。

「最近、煙草を吸わなくなったな」
「やめた」
「やめるのは難しいと聞いたが…やめられるものなのか?」
「意思が強いんだよ私は」
「確かに、そうだな」

会話が途切れる。気まずいという空気が皮膚を通して伝わってきた。

「ねえ尽八、別れたよ」
「……は?なんで…あんなに仲睦まじい様子だったのに、か、」
「今さっき電話して、謝った」

電話先の彼氏はというと、最後まで優しかった。好きなやつがいると。濁さずはっきりと事実を告げたのはせめてもの償いだった。知っていたと彼は笑った。ずっと、私の心がそこに在らずなのを知っていたのだと言った。ありがとうという声に泣きそうになった。ありがとうは、私の方だというのに。

「もしかして、オレのせいか?」

違うよ尽八。私のせいだ。私が馬鹿でガキで不甲斐なかったから、私を好いてくれたあんたを、そして彼を、酷く、酷く傷付けたんだ。

「すまない、もう、やめるよ。ちゃんと諦めるから。なまえちゃんを困らせたいわけじゃないんだ。オレは…好きな人には幸せになってもらいたいんだ」
「――幸せになれって言われたんだ」

絞り出すような声が言うが早いか、私は言葉を強めた。彼の言葉が脳裏に浮かぶ。悪いと思うなら、ゴメンと一言謝るくらいなら幸せになれって、――だから、本当に身勝手な我儘だけど。

「幸せにしてよ」

ピクリと動いた指先。驚愕した様子で顔を上げた尽八は、しばらく、随分と長い沈黙の中で私を見つめた。薄く開いた唇から素っ頓狂な声が漏れた。

「…………へ?」
「彼はいい人だったけど、プロポーズされても申し訳なさしかなかったんだ。覚えてる?あんたが私に約束したこと。あのときのほうがよっぽどさ、嬉しかったんだよ」
「……、えっと、なまえちゃん?何を言って…」
「ねえ尽八、これってつまり私があんたを好きだってことだよね」

自分自身に確かめるように口にしてみれば、真実は案外すんなりと心の中に溶け込んだ。つまるところ、やっぱりそういうことだったのだ。目の前で金魚のように口をパクパクとやっている馬鹿が、私はもうどうしようもないくらいに好きなのだ。さりげない優しさも、眩いくらいに綺麗な笑顔も、鬱陶しいくらいに真っ直ぐなところも全部引っくるめて何もかも。
空白の距離をつめて両腕を伸ばす。普段の彼を知る人からは想像できないであろうその表情は、できることなら私だけのものであってほしいと思った。背中に腕を回してみて伝わる鼓動の速さは、私のそれといい勝負だ。

「また酔っているのか…?な、ど、どれくらい飲んだんだ」
「ごめん。シラフだわ」

目をぐるぐると回して混乱する顔が閉じた瞼の裏に浮かぶ。私はその左肩に額を当てて、柔く息を吸い込んだ。

「振り回してごめん」
「っ、」
「知らないふりばっかして逃げて、きっとあんたのこと傷付けた。許してくれなくたっていい。でもね尽八。私はあんたが、」
「ま、待ってくれなまえちゃん!」
「…おいコラ」
「わがままだけど、その、…ここからはオレに言わせて欲しいんだ」

私の両肩を掴んで自分の胸から引き剥がし、どこか揺れる瞳が願い出た。いつか見た真面目な顔がすぐそこにある。手を伸ばせば届く距離。触れられる、近さ。私は確かに在る現実に安堵しながら大きな瞳を見つめ返した。それを肯定ととったらしい尽八は、一つ深呼吸をして、力強く私の名前を呼んだ。

「なまえ、ちゃん!」
「うん」
「この気持ちは誰にも負けない自信がある。オレはなまえちゃんが大好きだ。絶対に、絶対に幸せにする。だ、だから…っ」

肩に置かれた手が僅かに震えている。私は目の前にある潤んだ水晶体をじっと見つめながら、口元を片手で覆った。

「け、っこんを前提にオレと付き合ってください!」

瞬間、耐えきれず噴き出してしまったことについては本当に申し訳ないと思う。けれどプルプルと震える身体だとか、裏返った声だとか、泣き出しそうな目だとか。そういう余裕のない姿を至極愛しいものに感じた、そんな私の心情も出来る限り理解してもらいたい。
醜態を晒してしまったと言って尽八は頭を抱える。18歳、人生初の本気のプロポーズは彼の理想とはかなり掛け離れたものだったらしい。それは私だって同じだ、――でも。

「尽八、私まだ返事してない」

絶望的な顔がこちらを向く。いつもの自信はどこへやったんだと問いたくなるような反応だ。馬鹿、ここに来て断るわけないでしょ。答えはもちろんイエスのみ。あんたに「好き」だと伝えようと思った瞬間から、それ以外の答えは用意してないんだから。

やがて返ってきた笑顔に私は目を細める。やはり眩しい、けれど。なんて綺麗に笑うんだ。きっとそれは私が今まで目にしてきた凡ゆるものの中で、最も綺麗な情景だった。




(だからきっと涙が出たんだ)




20140210 fin.
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テーマ「人外ファンタジー」
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