恋をすると人は変わると言うけど、わたしという人間もそれに溢れず単純なものだということを自覚する。

「なまえ」

例えば、そう、名前を呼ばれた時。さしたる意味を持たなかった数文字が突然色着いた瞬間。彼の口が音を紡ぐと同時にトクンと心臓が脈打ち、体の熱が少しだけ上がった気分になる。自分が自分でなくなるような感覚さえ覚える。その度にわたしは、何かを繋ぎ止めるかのように息を飲むのだ。

「なに、寒咲くん」

屋上から下へ降りる階段の上、踊り場からこちらを見上げる表情は変わらない。
時折見せる輝きが、綺麗に脱色された髪色のせいではないと気付いたのはその時だった。目の前を光が包む。瞬きを数回、眩しくて閉じてしまった瞼を指先でなぞって。目にゴミが入ったでも思ったのだろう、寒咲くんはカラカラと笑いながら大丈夫かと問うてきた。
大丈夫、大丈夫じゃないよ。
思えば想うほどに込み上げてくる感情の正体を知りたい。世の中の男女はこれを恋や愛と呼ぶのかもしれない。ただ、きっとわたしは答えを導き出せないけれど。口の中で何回か咀嚼した彼の名前を声にできなかったのはそのせいだ。彼がしたように、同じように紡ぐにはまだ少し感情が拭い切れなかった。
屋上から階段へ吹き込む風に背中を押される。伸ばされた手を取ると、有無を言わさず胸の中へと誘われた。

「なまえは顔に似合わず黒が好き」
「馬鹿」
「オレのことも好き?」

逃がさないと言わんばかりに腕に力が込められる。響く心臓の音はわたしのものか、それとも。どちらともわからない、ただ二人しかいない空間の中でわたしは彼の背中に腕を回した。「好き」だなんて大層な言葉は口に出来ないけれど、許されるなら触れたいと思う気持ちは紛れもなく本物だった。

急かすようにチャイムが鳴り響いたのはそのときだ。昼休み終了を告げる合図。ざわめきを失い始めた校内の音を聞きながら、「そろそろ行くか」と寒咲くんは言った。
授業開始まであと5分。今日が水曜日で、記憶が正しければ次の授業は学年主任の数学だ。数学の教科書は机の中か、ロッカーの奥底か。あわよくば一度も当てられず、至極平和に一時間を終えたく思う。――と。寒咲くんは、くだらない思考を巡らせていたわたしの手を掴んで階段を降り始めた。思考は中断され、意識の全てが繋がれた掌へと集中する。熱が、集まる。

「ちょ、ちょっと、みんなに誤解される」
「付き合ってるって?事実だろ、誤解も何も」
「そういう問題じゃなくて」
「じゃどーすりゃいーの」
「これ、離して」

立ち止まった寒咲くんは悪戯っ子みたいな笑みを浮かべて「教室まで」と口にした。何もわかってない。その「教室まで」の間に誰かに見つかって騒がれることが面倒なのに。

「あ!寒咲ー!」

教室の方から元気な声が聞こえてきた。手を振り払おうとしたが、痛いほどに繋がれたそれは解かれそうにない。

「おまえどこ行ってたんだよ、次英語だぞ。みわっちゃんが英語の課題さっさと出せ…って、え?何?君たちそういう関係?」
「え、っと、これは…」
「そーそ。オレのカノジョ」

わたしは半ば諦めて、隠すこともせず盛大にため息を吐き出した。寒咲くんの友人はしばらく嘘だろうと笑っていたが、一向に訂正の言葉が返ってこないのを見て目を丸くした。みるみる真顔になった彼は何とも綺麗なフォームで回れ右をして、静かに教室に入っていった。教室の中で彼が何をしたかは想像に容易い。喧騒とともに教室から飛び出してきた寒咲くんのクラスメイトを目にして、わたしは乾いた笑いを浮かべるしかなかった。
しかし、何と言うか。寒咲くんはわたしが思っていたよりも遥かに友人というものが多かったらしい。あまりに頻繁に屋上へと足を運んでいるから気づけなかった、と。教室に戻り、そう口にすると、友人はニヤニヤと笑いながら指摘した。

「そりゃあ、あんたに会うために決まってるじゃない」
「やだ、なにそれ」
「そういうことよ。なまえが屋上にばっかり入り浸ってたのだって、そういうことでしょ」
「いや別にそういうわけじゃ…」
「いいの?あんなテキトーそうな男で」

途端に真面目な顔をして問うてきた彼女は、つまりこう言いたいのだろう。わたしと寒咲くんはあまりに対称的だ、と。彼女の考察は正しい。当事者であるわたしだってそう思う。寒咲くんにはもっと元気で明るい女の子が似合うだろうし、多分、わたしには静かで落ち着いた男の人が似合う。しかし、それでも寒咲くんはわたしを選んで、わたしは寒咲くんを選んだ。世界は何億人の人で溢れかえっているというのに、だ。

「始まるよ、授業」
「もう。あとでちゃんと聞かせなさいよ」

ここのところの世界は目まぐるしい。目に映る風景はとんでもないスピードで移り変わり、見たこともない色を咲かせる。
なんて目まぐるしい世界だろう。彼と出会ってからというもの、毎日はさながら特急列車のように過ぎていく。気づけば過ぎ去っていくものの一つ一つを、いつかは綺麗さっぱり忘れてしまうのかもしれない。全部、ぜんぶ、コンマ数秒の出来事さえも。しかと脳裏に焼き付けておくのは難しいことのように思えて仕方がない。忘れたくない。たかだか一瞬の揺らめきだって形に残して、目に焼き付けて、覚えておきたい。そう考えてしまう思考は果たして欲張りだろうか。



20150714
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