※ホラー、死ネタ要素を含みます。



うっすらと目を開いた深夜2時。暑くもなければ寒くもない、が、やけに寝苦しい夜だったと記憶している。薄いブランケットを剥いでベッドから起き上がり、外の風に触れようと思ったのは、気まぐれなどではなく必然だったのかもしれない。

向かいのマンションの屋上に女の子が一人佇んでいた。10月とは思えない冷気が肌を叩いているのにも関わらず、その子は白い布のような服を身に纏っていた。着ている、というよりは覆っていると言ったほうが正しい。純白の、シンプルなAラインのドレスだ。そう、ちょうど先日、彼女が「結婚式はこんな感じがいいなぁ」と指差したウェディングドレスによく似ている。
それにしても。何故あの女の子はこの寒空の下、マンションの屋上なんかに。当然の疑問がぼんやりと頭に浮かんだ瞬間の出来事だった。
女の子は文字通り、その場所から飛んだ。
まるでこれから空へ羽ばたこうとする鳥のような、無駄のない動作だった。そう思わせるくらい、その子は綺麗に飛んだ。地面を蹴って宙に身を投げ出すまで、普通は抱かずにはいられないであろう迷いや躊躇いは一切なかった。
昨晩の出来事である。

「バァカ。夢に決まってんだろ」

そのことを話すと、靖友は訝しげな顔を向けてオレの言葉を一蹴した。

「いや、ホントだぜ。確かに、」
「寝ぼけてたんだっつの。仮にソコで飛び降り自殺した女がいたとしたら、何で見つかってねェんだヨ」

ソコ、と指差された先にある茶色の建物を見やる。何の変哲もない六階建てのマンションだ。靖友の言うとおり、女の子の遺体が見つかったという話は誰一人としてしていなかった。ニュースや新聞の一面に上がるのは、数日前に起きた政治家の不正疑惑の話や芸能人のスクープといった代わり映えのない話題ばかり。何事もなかったかのように始まった今日は既に正午を告げている。
晩の薄気味悪い雰囲気は跡形もなく、例のマンションは日中の穏やかな日の光に照らされている。反射する緑が眩しい。
チームメイトの机に頬杖をついて思考を巡らす。クラス内のけたたましい音は不思議と耳に入ってこなかった。昨晩の嫌な光景は脳裏に張り付いたまま、人が死ぬ場面なんて誰が見ても気分がいいものじゃあない。しかしそれとは違う、根拠のない漠然とした疑念が心を満たしているのも確かだった。言うなれば恐れにも似た不安。オレ自身、この感情の正体には気づけずにいる。
もしかしたら、あのドレスのせいだろうか。もし、無意識の内にあの女の子と彼女を重ねてしまっているとしたら。

「おいデブ」

靖友がオレの額を引っ叩いた。その呼び方はともかく、何も叩くことないんじゃないか。
じんじんするそこをさすっていると、靖友は、今度は窓の外ではなく廊下側を指差した。視線を移す。するとそこには遠慮気味に扉から顔を覗かせる彼女の姿があった。

「お弁当、作って来ちゃった」

柔らかい笑みを浮かべる彼女を目にしたら、モヤモヤとした薄暗いものは少しだけ晴れたような気がした。

いつもは中庭のベンチか食堂だが、今日は珍しく彼女の方から「屋上で食べよう」と言ってきた。また何で、と思ったものの、オレは二つ返事で了承し、他愛ない話をしながら屋上へと続く階段を登った。
彼女が作ってきたという弁当の箱を開くと、色とりどりの食材が所狭しと並んでいた。彼女は料理が上手い。男を掴むなら胃袋から、という戦法は実に効果的だと思う。まぁ、彼女の場合そんなことは微塵も考えていないんだろうけど。「いただきます」しっかりと両手を合わせ唱え、食事を口に運んだ。

「うまいな。さすがなまえ、いい嫁さんになるぜ」
「隼人は何でも美味しそうに食べてくれるから作り甲斐あるよ」
「食べないのか?」
「うん。今日はちょっと」

向けられた笑顔に違和感を覚えたのはその時だ。彼女は仮面のような笑顔を貼り付けたまま、オレの手元にある弁当箱を指差した。

「私、ウサギは好きじゃないの」

ゾクリとした感覚が背筋を伝った。ウサギ?まさか。弁当箱の中身に視線を落とせば、茶色い肉の塊が視界に飛び込んできた。それと同時に胃のあたりから込み上げる、吐気。さっき食べたばかりのそれらを残らず吐き出しそうになって、オレは自分の口を両手で押さえつけた。
恐る恐る右隣を見やる。変わらず不気味な笑顔を浮かべる彼女は、またにっこりと口元を吊り上げて「信じちゃった?」愉しそうに言った。

「なんてね。冗談」
「…そういう笑えない冗談はやめてくれ」
「何で?美味しかったでしょ?今私がそのお肉はウサギだって言わなければ、隼人は美味しい美味しいって言いながら何時もみたいに残さず食べてくれたと思うな」

オレは言葉に詰まった。
ああ、確かにそうかもしれない。もし彼女がウサギの話題を口にさえしなければ、オレはこの肉を鳥や豚のモノだと信じて胃に送り込んでいたかもしれない。いつも可愛がっているウサ吉と同じ動物を、美味いと言いながら喰べていただろう。
そこでふと考えた。ウサギの肉はどんな味がするのか、と。今彼女はこれがウサギであることをやんわりと否定したが、もし仮に、それが嘘だったら。オレは生唾を飲み込んで、弁当箱を置いた。立ち上がろうとすると激しい目眩に襲われたが、それどころではない。彼女に一言断りを入れることも忘れ屋上を出ようとした、そのとき、右腕のあたりを強い力で腕を掴まれた。

「どこ行くの?」

言わんとした何かしらの言葉は掠れて声にならなかった。おかしい。何かが変だ。さっきまで青かった空が曇り始めた気がする。近くにいるはずの生徒たちから遠く切り離された感覚。音が壁一枚を隔てた向こう側に聞こえる。地面に足をついていないような浮遊感に、吐気が込み上げる。彼女が笑っている。掴まれた腕がミシミシと音を立てて、今にも引きちぎられそうだ。

「私のこと疑ってるの?私が隼人の大事なウサ吉を殺してお肉にしちゃったと思ってる?」

――隼人の大好きな女の子はそんなことしないよね?
しないよ、しない。オレの好きな女の子はそんな風に笑わないし、そんな酷いことを口にするような子じゃない。じゃあ、誰だ?今オレの腕を掴んで眈々とオレに疑問符をぶつけてくる、彼女は。

「ねえ隼人、自分の存在している世界が本物だって証明できる?」

彼女は謳うように言う。もしかしたら自分は誰かの作り出した夢の中に生きる人物かもしれない。実はロードバイクなんてやっていなくて、レース中にウサギを轢き殺してなんかなくて、子ウサギを可愛がってなんかいなくて、ウサギの話で隣のクラスの女の子と仲良くなってなんかなくて、それがきっかけで女の子と付き合うことになんかなってなくて、女の子が死にたいほど悩んでいたわけなんて知らなくて、そんな彼女が誰も知らない深夜2時に思い出のドレスを着てマンションの屋上を訪れていたなんて、そんな、「隼人のいる世界は嘘で出来てるだよ」――そんなことがあるわけない。

「は…そんなの、うそ、だろ」
「嘘だよ。今のは嘘、ウソでうそでみーんなホント」

嘘の反対は本当だ。嘘のあとに嘘を言えばそれは本当のことになる。今、彼女は何回「嘘」を言った?

「だから私がここから飛び降りても大丈夫。止めてくれなくたって隼人はなーんにも悪くないし、誰かに責められることもないんだよ」

彼女は。
彼女は宣言通り、屋上から飛んだ。まるでこれから空へ羽ばたこうとする鳥のような、無駄のない動作で。地面を蹴って宙に身を投げ出すまで、普通は抱かずにはいられないであろう迷いや躊躇いは一切なかった。

彼女に向かって伸ばした手が空を切った。そのとき、オレはやっとベッドの上で目を覚ました。

時刻は朝の8時を過ぎた頃。完全に寝坊だと思いながら起き上がると、自分が汗塗れだということに漸く気づいた。まだハッキリと思い出せる。嫌な夢だった。
学校に行くと、朝練を終えたチームメイトたちが揃って廊下で話し込んでいた。怒られることを覚悟で声を掛けたが、靖友からの怒声は飛んでこなかった。それを不自然に思い、どうしたのかと問いかけると、靖友は何かを言おうとして、しかし閉口して顔を逸らした。そんな靖友を尽八が宥めている。

「新開、もう大丈夫なのか」
「何がだ?それより寿一、今週末走りに行こう。なまえに言って弁当作ってもらうからさ、靖友と尽八も連れて、」

久しぶりに走ろう。そう言いかけた途端、右頬に刺すような痛みを感じた。殴られたと知ったのは体制を崩し壁に凭れかかったあと、口の中に血の味が広がってからだった。

「てめェまだそんなこと…ッ!」
「やめろ荒北!…無理もない、コイツは大事にしていたものを一度に失っているんだ。それで正気でいようってほうが、狂ってる」

尽八の言葉に思考が停止した。今朝方見た夢の内容がフラッシュバックする。夢、夢のはずだ。マンションの屋上から飛び降りた女の子も、彼女の作ってきた弁当も、屋上から飛び降りた彼女も、それを止められなかったオレも。これは現実である、はずだ。朝練に遅刻したことも、寿一が悲しそうな顔をしているのも、オレを殴った靖友が奥歯を噛み締めているのも、尽八が「コイツは大事にしていたものを一度に失っているんだ」と言ったことも。
おかしい、変だ、何かが、狂っている。

――何処までが夢(現実)だ?



20141027
企画「ぺろり、ごくん。」さまに提出
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