遠くのほうに小さく滝の音が聴こえる。雨が降る前のような独特の香りが辺りに漂っている。畑の近くに比べ、辺りの気温は数度ぐんと下がったような気がした。

「川だー!」
「川だな!!」
「水だー!」
「水だな!!」
「いくぞー!」
「いや待てなまえ!まずは準備体操からだ!」

なまえと東堂は一頻り騒いだあと、でかい声を張りあげながらストレッチを始めた。どうせ下に降りることになるのだから下でやったらどうかと思う。

「オレと寿一は釣りしてるから」
「えー、入らないの?」

至極残念そうななまえに新開は何とも人畜無害そうな笑顔を返した。両手には大きめのバケツと簡易釣竿が握られている。用意周到に餌箱までも準備されているところから察するに、奴らは初めからそのつもりでいたわけだろう。
一緒に川に入るのだと駄々をこねるなまえをたった一言で黙らせたのは、ドンと仁王立ちした福富の声だった。

「オレは釣りがしたい」
「わっはっは!相変わらずマイペースだな、フクよ」
「ずっとやりたがってたもんな。――靖友は、」
「ぶっぶー!靖友はわたしと尽八と泳ぎます。魚を取ります。そうだ、魚、どっちがいっぱい取れるか勝負しようよ」

オレまだ何も言ってねェんだけど。
こいつの強引さというか、女らしからぬ自己主張の強さにはいっそ溜息しか出ない。

「買った方が負けた方にアイスアイス食べ放題奢りね」
「いいぜ。負けても泣くなよ?」
「そっちは三人とはいえ東堂がいる。負ける気はしない」
「どういう意味だフク!」

勝ち負けに拘りはない。が、金が吸い取られるのだけは避けたい。いかにも食いそうな奴が向こうにひとり――何の気なしにそちらを見やれば、視線が見事かち合った。というより、何だ、多分、勝負の下りあたりからあいつずっとこっち睨んでやがったと思う。めんどくせェ。
舌打ちは確かに音となって隣にいる元凶の耳にも届いたはずだというのに、なまえはこっちを見上げてへらりと笑うだけで絡めた腕を離そうとはしなかった。おいコラ空気読め。お前らの心底どうでもいい色恋沙汰に部外者のオレまで巻き込むなっつの。

「あんまくっつくと睨まれっからやめろ」
「睨まれてもいいよ。くっついてないと靖友取られちゃうもん。わたし靖友と仲良くなりたいのにさぁ、隼人ったら靖友のこと大好きだからって独り占めはよくないよね」
「…アー、そだな」
「わ!靖友、頭あっつ!」

鈍感すぎる感性に呆れ返っていると、無遠慮に伸ばされた手が頭の上のキャップに触れ、かと思えば、ひょいとキャップを掻っ攫っていった。
てっぺんに触れた手はまるで犬でも撫でるみたいに髪を掻き乱す。「髪まで熱くなってるよ」満足そうに笑う顔が前髪の隙間からちらりと見えた。好き勝手しやがって。オレはいい加減にしろという意味を込めて右手で細い腕を掴みあげ、驚いて丸くなった目玉を他所にもう片方の手で細い髪に手を伸ばした。じわりと、卵でも焼けるんじゃないかと。そう錯覚するほどの熱が皮膚から伝わってきた。

「バァカ、おまえだって熱いだろが。帽子かぶんねェとぶっ倒れんぞ…これ被ってろ」
「……、」
「何だヨ。急に黙んな」

サイズ感のないぶかぶかの帽子の鍔の下、こちらの様子を窺うかのような視線がそこにある。

「靖友って何だかんだ言って優しいよね。そゆとこ好き」

なんだ、好きって。
ほんの一瞬の思考停止。心臓のあたりからこみ上げてきた熱は暑さのせいか、それとも。
そんなとき、助走をつけた東堂が体当たりをかましてきた。咄嗟に避けたオレの横を東堂が擦り抜けたかと思えば、下の方で何かが水面に打ち付けられる音。痛いだの冷たいだの、避けるなだのと煩い声が聞こえてくる。ざまァみろと東堂に背を向けたオレだったが、勢い良く腕にまとわりついてきたなまえにギョッとした。柔らかいものが当たっているとか、そういう下心はいっそどうだっていい。こいつ、何する気――!

「ば…ッ危ねェだろーが!!殺す気かてめェ!!」
「あはは!つめたー!」

案の定、オレを崖の淵まで追いやったなまえはそのまま落下地点へ。ひどい浮遊感に襲われたが、息をする間も無ければ無論声を上げる余裕さえなかった。

「うむ。水面に映るオレも美しい。水も滴るなんとやらだな…ぶべっ」
「今の声ファンの子が聞いたら泣いちゃうね?」
「仕返しだ!くらえ!山神スプラッシュ!」

東堂が飛ばした水鉄砲が顔面に直撃した。勢いのついた川の水は鼻から内側へと侵入し、オレは反射的に咳き込む。慌てふためく声の方を見やると、そいつらは顔を真っ青にして二、三歩後ずさった。

「い、今のは尽八が悪い」
「いやいやいや!なまえが避けるからこういうことにッ、…お、落ちつけ荒北こういうときこそ冷静にだな!」
「…コロス」
「ぎゃー!!」

突如として始まった鬼ごっこ。誰からともなく邪魔な靴を脱ぎ捨て、辺りを駆け回る。
飛び散る水滴は木漏れ日に曝されてキラキラと光を帯びている。その光が、肌にまとわりつく服が、水の匂いが、嫌でも夏という季節を連想させて、オレは思わず足を止めた。キレイだと純粋にそう感じた。嗚呼、腹の底のほうから込み上げてくるこれは、何だ。生い茂る、目の前の緑が滲む。頬を滑った生暖かい水は川のそれなんかじゃねェ、何で泣いてんだ、オレ。

「靖友、大丈夫?」

ゴシゴシと目をこすっていたら、なまえが心配そうに覗き込んできた。と、同時に、飛び込んできた光景に涙が引っ込んだ。

「具合悪い?」

いつ水着姿になったかは知らないが、目のやり場に困るとはまさにこのことだろう。意外とでかい…って違う、そんなことはどうだっていい。とにかくだ。濡れた黒髪とか、上目遣いとか、おそらく無意識であろうそれらはあまりに心臓に悪い。本人に自覚がないのが何よりも問題だと思う。

「えっ、なになに、鬼ごっこ?」
「ちげーよ!こっち来んな!」
「隼人ー!靖友そっち行った!捕まえてくれたら食堂のおばちゃんのあんぱん!」
「言ったな?本気で行くぜ」
「でたな、隼人のバキュンポーズ!狙った獲物は必ず仕留める合図だ!」
「寿一も来いよ。鬼ごっこだ」
「荒北を捕まえればいいのか」

その後、オレは鬼のような形相で追いかけてきた新開にあっさりと捕まってしまったわけだが。日が暮れるまで遊び呆けたその日は、久方振りに深い眠りにつくことができた。
そして変わったことが一つ。それが脳裏にチラつくたびに、ざわざわと音を立てる心臓。それは何かしらの予兆でもあり、同時に一種の警告でもあり。正体不明、ぼんやりとした感情にオレは一つ舌打ちをした。



20140820
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