「やりたいことやっとかねーと、あとで後悔すんのはもったいねェよ」

それは昼休みの屋上などという、使い古されて草臥れた日常の中の出来事だった。

***

その日はいつもより10分早く目が覚めた。いつもと比べると、やけに目覚めの良い朝だった。だからだろうか。余裕を持って乗り込んだ朝の電車はそれなりに空いていた。つまらない授業時間は外の景色を眺めつつボンヤリと過ごしたが、先生に指名されることはなかった。
昼休み。決まった友人同士で集まり始めたクラスメイトたちの間をぬって教室を後にした私は、重たく立て付けの悪い灰色の扉を開ける。立ち入り禁止の立て札を跨いで、ドアノブを捻る。階段の下から外へ舞い込んだ風は、手入れの行き届いていない髪を容赦無く乱した。明るさの中に吸い込まれるかのような感覚。この季節にしては些か眩しすぎる日差しに、薄っすらと瞼を開いて。
天候は良くもなく悪くもなく。朝のニュースでは雨が降ると言っていたような気がしないでもないが、雨粒が落ちてくる気配はないに等しい。しかし念には念を。午後の授業に出たら真っ直ぐ家に帰ろう。そこにはイベントと呼べるほどの出来事は起きず、そうして眠りにつけば、また今日と変わらない明日がやって来る。
毎日は酷く平凡だ。刺激が欲しくないと言えば嘘になるが、かと言って日常を掻き乱すほどの劇的な何かはいらない。程々でいい。その僅かな刺激を欲するが故に、私はここに来るわけだが。

大層な思考を振り切るように大きく伸びをした。カメラのレンズ越しに写る空はやはりいつもと変わらない。目覚めが良くても、電車が空いていても、授業中難しい問題に当たらなくても、これといって目の前に広がる世界に影響が及ぶことはない。
つまらない。首から下げていた一眼レフをベンチの上に置き、フェンスにもたれかかった。空は青い。日差しが弱いだけ、まだマシである。

「おっと、先客」

全身の気怠さに飲み込まれようとしていたとき、普段は開かないはずの扉が音を立てて開いた。

「もしかしてここの鍵こじ開けたのおまえか?やるねェ」

沽券のために一つ断っておこう。密かに作った合鍵で鍵を開け、本来立ち入りが禁じられている屋上に来たことは認めるが、決して力技でこじ開けたわけではない。その重たい扉をこじ開ける女子がいるというなら、是非ともお目にかかりたいものだ。

「一年?」
「一年だけどよ、隣のクラスだから知んねェと思うぜ。みょうじなまえサン」

どこか飄々とした雰囲気を漂わす茶髪の同級生は確信をもって私の名前を口にした。私は彼を知らない。彼は、私を知っている。それを喜ばしいものとするか、あるいは訝しいものとするか。申し訳なさこそ感じないが、私はどちらかと言うと迷いない後者である。

「何で知ってるか不思議って顔してんな」
「何で知ってるのキモチワルイって顔してるの」
「この学校の可愛い子はピックアップ済みだから」
「気持ち悪い」

率直な意見を告げると、彼は冗談だといって笑った。

「写真部期待のホープ」
「…なにそれ」
「いい写真撮るらしいね。クラスの写真部が言ってたよ。まあオレはそれ、全然詳しくねェけど」

それ、と、彼が指刺したのはベンチの上に置かれた一眼レフだ。
父親にせがみ、やっとの思いで買ってもらったそのカメラとは中学生の頃からの付き合いである。あの頃は純粋に写真が好きだった。流れるように姿を変えていく世界を切り取り、形にする。たった一枚の紙に映される色に心を奪われていた。

「写真好きなんだな」
「嫌い」
「はあ、そりゃまた何で」
「つまらないから」

今となっては過去の話だ。いつからだろう、そんなことはとっくに忘れてしまったけれど。ああ、こんなもんか、と。諦めにも似た感情を覚えるようになった。(まるで、世界そのものが動くことを諦めたかのような)

「でも好きなんだろ」
「だから、嫌いだって…」
「持ち歩いてんのにか」

私は言葉に詰まった。一方の彼は、その顔に笑顔を浮かべる。そうして臆する様子もなく、冒頭の言葉を口にしたのである。
図星を突かれた、というよりは驚きのほうが大きかった。同時に、自分の中の何かが大きく揺らぐ感覚。あんなにも当然の言葉を吐けるほど純粋で真っ直ぐな人間は、それまで、私の近くには誰一人として存在しなかった。

「おいおい、突然撮るか普通」
「アホ面」

こう言ってしまうと大袈裟に聞こえるかもしれない。しかし久しぶりに押したシャッターの感触は、きっと忘れられそうにないと思った。その時、世界はゆらりと、確かに姿を変えたのだ。



20140701
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